ウエストミンスターの司法律法観
<Sugi様>
いつもお世話になっています。
Sugi です。 さて ウェストミンスター信仰告白 なのですが、第19章第3項および第4項 は原文では以下のようになっています。
III. Beside this law, commonly called moral, God was pleased to give to the people of Israel, as a church under age, ceremonial laws, containing several typical ordinances, partly of worship, prefiguring Christ, his graces, actions, sufferings, and benefits; and partly, holding forth divers instructions of moral duties. All which ceremonial laws are now abrogated, under the new testament.
IV. To them also, as a body politic, he gave sundry judicial laws, which expired together with the State of that people; not obliging any other now, further than the general equity thereof may require.
第4項に関しての参照聖書箇所は出エジプト21章、22章1節―29節、創世記49:10、Tペテロ 2:13−14、マタイ5;17、38−39、Tコリント9:8−10 があげられています。
further than the general equity thereof may require. という語句を見るならば、司法律法の現代における有効性をウェストミンスター信仰告白は否定していません。
むしろ、その一般的適用について積極的、かつ肯定的です。
(司法律法を具体的にどのように現代社会に適用するかについて、旧約の経綸下のイスラエルの場合とまったく同じにするかどうかは検討の余地がありますが――これについては Greg Bahnsen もそのような 趣旨のことを言っています。)
さらに、下記のようにウェストミンスター信仰告白にはあります。
VII. Neither are the forementioned uses of the law contrary to the grace of the gospel, but do sweetly comply with it; the Spirit of Christ subduing and enabling the will of man to do that freely, and cheerfully, which the will of God, revealed in the law, requireth to be done.
Rushdoony やBahnsen の主張とウェストミンスター信仰告白の第19章との間にはさしたる隔たりがあるようには思えないのですが。
ウェストミンスター信仰告白にはどこか太っ腹なところがあります。 相撲の言い方でいえば、みんなウェストミンスター信仰告白の胸をかりて、相撲をとって大きくなるのです。
さて、わたしも スコットランド長老教会の宣言というのを探しているのですが見つかりません。 スコットランド長老教会も組織としては大きな組織ですからいろいろな発言主張があっても不思議はありませんが。 そして、もしその発言があったとしてもみんながそう考えているとは私にはとても考えられません。 基本的にどこの長老教会も太っ腹のところがありますから、そういう意味では 一と多 が 機能 しているわけです。もちろん限度もありますが。
現代において、最も重要なことは、 聖書的世界観 対 反聖書的世界観 かの
対立(Antithesis) です。 そして、このAntithesis をはっきりとさせなければなりません。
Van Till、 Rushdoony、Bahnsen、North といった神学者たちはそれをしてくれたのです。 すべてのクリスチャンが ここに 全力 を集中するならば、時間はかかるにしても、みんなが正しい方向に導かれていきます。
Antithesis を はっきりすることに 私たちの使命があるのです。
伝道も教会形成もホームスクーリングも これなくしては何の意味もありません。
Antithesis を はっきりすることに焦点をあわせて、兄弟を励まし、力を合わせて、主のために働くことが、主イエス・キリストの 「神の国と神の義とをまず第一に求め続けなさい。」 という言葉に従っていくことなのです。
ですから、 富井先生がそのためにこの掲示板を 私たちに提供してくださっていることに感謝しております。
<tomi>
Sugi様
まさに的確なご指摘を感謝いたします。
実際、このgeneral equityの解釈をめぐって議論が起き、ウエストミンスターは司法律法を捨てたか捨てなかったかと問題になったことがあります。
バーンセンは再建主義シンポジウムでこの問題を扱いました。
詳しく調べる予定ですが、私の今の印象では、このgeneral equityは、17世紀において自然法を意味していたのではないかと考えます。
自然法と考えると、「ウエストミンスターは司法律法を廃棄した」ということになるのですが、しかし、自然法というのもやっかいなもので、この当時、神の啓示法と自然法がかなりだぶって区別がつきにくい状況があったらしく、今日のように、両者が截然と分離されているような状況ではなかったようなのです。
というのも、カルヴァンは、綱要の中で「普通法によっても諸国は正しく治められている」と主張しているからです。
しかし、同時に彼は、申命記においてしっかりと啓示法に従うように勧めています。
また、カトリックの教えが旧約聖書の婚姻法など律法に基づいていたようで、この当時、ヨーロッパ世界は、われわれの想像も及ばないほどに聖書律法の影響が随所にあった。
こういった自然法と聖書法の渾然一体となった状態では、人間の堕落の性質は明らかにされません。
神は、その後400年の間にヒューマニズムの成長を許しました。そして、ついに現代に至る。
自然法の正体が明らかになり、自然法に期待する山谷さんのようなクリスチャンが出現し、クリスチャンとノンクリスチャンの境目があいまいになり、世界中でキリスト教の実質的な衰退現象が起きるまで神は現状を放置されたと考えるべきでしょう。
セオノミーは出るべくして出た歴史的必然であり、神がいかに御国について心配しておられるかの証拠でもあります。
2004年6月24日
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