物部氏が封印された理由5


八咫烏によると、物部氏は、徐福とともにやってきた。

物部の神社である、籠神社及び真名井神社の祭神は豊受大神である。豊受大神は、記録によると、五穀を作り、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめた。

徐福は、技術者とともに、五穀の種を持ってやってきた。


司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F

これではっきりとした。

つまり、物部の豊受大神は、徐福とともにやってきた神である。

徐福が旅立った場所は、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。

このあたりは、当時「越」という国があった。

日本の越智氏は、もともと中国の越にいたと記録にあるから、おそらく、徐福といっしょにやってきたのではないだろうか。

事実、物部の賀茂氏と、越智氏が奉祀する神は同じ大山積神であり、「『二十一社記』に賀茂社と同じく天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀されることから、賀茂氏との親類関係が窺える」という。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm

これで、越智氏も賀茂氏も同じ徐福とともにやってきた物部氏であると考えればつじつまが合う。

ちなみに、越智氏の故郷伊予の地に伊予賀茂氏や賀茂伊予氏という氏族があるという。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm

越智氏とその神社三嶋神社は、伊予から伊豆のほうに移動したが、おそらく徐福が富士山を目指したことと関係があるのだろう。

賀茂氏も、同じ理由で富士山のふもとである三島や伊豆に移動したと思われる。

物部の物語である浦島太郎は、歴史家堀井晃氏によると洞庭湖が起源らしいが、洞庭湖あたりは越族の居住地であった。

物部氏は、徐福とともにやってくる前、中国において越族だったのではないか。その中に越智氏や賀茂氏、海部氏の先祖がいたのではないか。

飛鳥氏によると、系図をたどると、徐福は、始皇帝と同じ部族であったらしい。

仮に始皇帝がユダヤ人であったとすれば(宰相呂不偉(りょふい)はレビの漢字表記と言われる)、徐福もユダヤ人であった可能性は高い。

これが正しいならば、籠神社の神主が川口氏に言った「この神社の祭神はユダヤの神であり、私もユダヤの末裔だと思っている」との言葉が真実味を帯びてくる。

ちなみに、徐福の日本渡来は、不老不死の薬を探すためではなく、日本に国を作るためではなかっただろうか。

3000人の若い男女を連れて、技術者もつれてきたということは、永住を目的としていたとしか思えない。

となると、徐福の目的は、日本にユダヤ王国を作ることだった可能性が出てくる。

日本には、天皇家と違ったルートでユダヤ人がやってきた。

彼らは、紀元前にすでに物部王国を作っていた。

この物部王国は別名秦王国であり、それはユダヤの国であった。

これはイエス・キリスト以前の王国だから、旧約の国。

この旧約の国に後ほどイエス・キリストの誕生の知らせと、十字架及び復活の福音が弟子たちによって伝えられた。

だから、物部の神社である籠神社に、豊受大神に天照大神の信仰が追加されたのだ。

この関係は伊勢神宮の外宮と内宮に引き継がれる。

外宮は豊受大神を、内宮は天照大神を祭ってある。

旧約の部族である物部秦氏と、新約の部族である天皇家の秦氏が合体しているのが伊勢神宮ではないか。

京都も、旧約の民である賀茂氏と、4世紀にキリスト教国弓月国から朝鮮半島を経由してやってきた新約の民である秦氏の両者によって作られたらしい。

どうやら日本の基本構造には、この旧約の民と新約の民が合体するという構造があるように思われる。

 

 

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2009年6月30日

 

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