聖書よりも権威を持つものがあるならその教団を離れろ
私の90年までいた教会では、牧師が勝手に聖書を翻訳し、すごい意訳であるにもかかわらず、それを講壇で使い始めた。
もはや新興宗教でした。
私は、聖書的キリスト教とは、不可避的に分裂を伴うものだと考えております。
私は、聖書にしたがってものを考えることに決めました。
何よりも聖書を権威とすると心に堅く決めました。
そうなると、私といっしょにやっていける人というのは、限られてくる。すなわち、私と一緒に聖書を最高権威とできる人です。
聖書を最高権威とできない人とは、別れてきました。
自分の欲が先に立つと、聖書を曲解するか、明確に捨てるかいずれかの反応が生じます。
今、福音派も聖霊派も、もちろんリベラルも、バルトも、聖書を最高権威としておりません。
「私はそんな考え受け入れられません」と、聖書に向かっていう。
聖書よりも偉くなってしまった。こういう傲慢は、究極的傲慢であって、絶対に神の国に入ることはできません。
私は、人間が100万人集まって大教団を作ったとしても、聖書よりも大きな権威を持つものが現れるならば、それは、ゴミ教団だと思います。何の役にも立たない。
私にとってそんなグループいかなる意味もないから別れます。いかなる接触も持たない。
結局、外から見てみると、私がかつて在籍していた教団は、やはり出ることが正解だったと思います。
2010年5月4日
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