バルト神学は異端である1
(1)
バルトは、自分の神学を「啓示の神学」と呼ぶが、彼の啓示とは正統主義が唱える「聖書66巻で完結した啓示」ではない。
啓示は常に行為でなければならない。そして、もし啓示が神と人間との間の相互作用でなければそれはけっして行為ではない。この相互作用の中に人間が参加するには、人間は人間以上の者にならなければならない。人間が啓示を受け入れる行為は、聖霊を通じて、神が自分自身の言葉を受け入れる行為になる。なぜならば、神は神によってしか知られることがないから。・・・このように、バルト主義は、モダニズムと同じように、「神は人間において自意識に至り、人間は神において自意識に至る」と考える。神が知識に至るには、人間を必要とするという点において、バルトは正統主義の「神の自存性」の教理を否定する。
神とは、神の啓示と同一である。上記のように、啓示は、神化した人間と神の間の相互作用である。神の超越性とは、「神は人間と完全に同一になる自由を持ち、人間を引き上げて、ご自身と完全に同一にならせる自由を持つ」ということである。「神=啓示=神と人間の相互作用」という図式から明らかなように、バルトが「超越者」と呼ぶ神は、「人間との相互作用」を前提として成り立つ存在であり、それは、(1)で述べたように、正統主義の「三位一体の内部における社会的相互関係において自己完結し、被造物をまったく必要としない自存の神」という概念にまったく反している。
人間にとって「完全な状態」とは、未来の目標であり、人間に関する神の御心を暗示するものであり、自分自身にとっての理想である。しかし、神の御意思は、人間によって妨害されることがある。相互作用の過程(つまり、啓示)は、「人間は自分の理想に届かない」ということを示している。ここにバルト主義がモダニズムと同レベルであるということが明らかになる。「進化の過程において、人間は、自分のために高い理想を掲げたが、自分が属する状況のせいで、その目標に完全には達することができない。これが、創世記の堕落が示すところである」と。
神は、キリストを通じて人間に接する者であり、人間とは、キリストを通じて神に接する者である。キリストとの合一は、人間に対する神の理想であり、相互作用としての啓示を通じて実現する。キリストは、人間の自分自身にとっての理想であり、真のアダムである。キリストは、キリストなしでは存在しない神と、キリストなしでは存在しない人間との混合である。このようなキリストは聖書のキリストではない。
2006年3月25日
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