再建主義批判のサイト(米)への応答13
<RNCI>
モーセ律法の適用には、次のような死罪に対する死刑の適用も含まれるだろう。すなわち、殺人、レイプ、誘拐、獣姦、近親相姦、姦淫、不品行、同性愛、偶像礼拝、魔術、人身御供、子供(成年)の頑固な非行、他人を死に至らしめるような悪質な傍観、冒涜、背教、間違った教理の伝播、(おそらく)安息日違反。
<tomi>
(1)
罪に対する聖書が教える処理法は、被害者が刑罰を決定するという方法である。姦淫罪は死刑と旧約律法に規定されているにもかかわらず、聖書では、姦淫した妻が許されている記述がある。ヨセフとマリヤである。マリヤは、まだ2人が同居していないときに、妊娠してしまった。ヨセフは「義人だったのでマリヤをひそかに離縁しようとした」と聖書は述べている。聖書において「義人」とは、「律法を守る人」のことを指すから、「姦淫した妻をひそかに離縁すること」は、「律法に適った行為」だった。
モーセ律法において「処刑せよ」と書いてあることは、必ずしも「即処刑」を意味しない。聖書の規定は、「最高刑」である。「目には目」とあるのは、「目を越える罰を下すな」ということである。
(2)
すでに何度も述べるように、我々が今感覚として抱いている「罪意識」は、聖書のそれからかなりずれている。だから、これらの罪のリストが何か厳しいものであるかのように感じるのであるが、しかし、文化全体がキリスト教化され、クリスチャンであることがあたりまえの社会になれば、これらの罪、たとえば、同性愛や獣姦に対する嫌悪は相当なものであろう。
実際、ついこの間、数十年前に我々が抱いていた同性愛に対するイメージと今の我々が抱いているイメージはかなり違う。ホモがTVで登場し、最初は「ゲテモノ」に見えていたのが、次第に目が慣らされて、普通の人のように感じている。
我々の感覚は、このように容易にだまされてしまうものである。だから、超越的な規範が必要なのである。いつの時代も変わらない不変の基準がなければ、我々は自分が堕落していることに気づかず、堕落を非難する神を逆に非難するようになる。
これらの罪のリストを見て、「こんな微罪で死刑にする神はひどい!」と感じているならば、その人は、神の支配を望んでいないのである。つまり、彼は、「あなたは我々の王になってほしくない」と叫び、キリストを十字架につけたユダヤ人と同じ人種である。
彼らが40年後に滅亡したように、その人も滅亡の憂き目に遭う以外にはないのである。
2006年2月24日
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