殺人被害者に負担を負わせる邪な偽キリスト教



一連のニュースレター(「司法は我々市民を守る意思があるのか?」「法治国家を守りたいなら、殺人に対しては一律死刑を適用せよ」「本当の自由を学びたいなら聖書を読め」)拝読しました。
全く同感です。全面的に御説に賛同致します。
日本キリスト教団の教会にいたときの話を思い出しました。
「犯人を赦してあげなさい」と説得するクリスチャンのグループがいる、と聞きました。
どこからか入手した個人情報(!)で、被害者家族宅に手紙を出す。
「犯人はあなたの御家族を殺害しました。でも、彼らは、自分で何をしたのかわかっていないのです。
犯人にも更正の余地があるのです。悔い改めて第二の人生を歩むチャンスを与えてあげて下さい。彼らを赦してあげて下さい。あなたも神の愛によって生かされているのです。私たちも愛を以て神様にお応えしようではありませんか。死刑求刑を思いとどまって下さい。無期懲役求刑として下さい。」
・・・というような内容(文面は私の記憶によります)の直筆の手紙に、御丁寧にも聖書を添えて。

当然、大抵無視されます。すると、今度は、
「あなたは血も涙もない残酷な殺人者だ!犯人と変わらないではないか!基本的人権を弁えよ!」
という脅迫状めいた手紙が、どこかの団体から届く。
まあ、これも無視されて終わり、なのですが、たまたま被害者家族がクリスチャンだったケースがあったそうです(で、この話を知ったのですが)。

そうしたら、上記の手紙だけでなく、なんと日本全国の教会やクリスチャン個人から、無数の同趣旨の手紙が毎日押し寄せたとか。

御家族は真剣に悩んだようで、所属教会の牧師に相談したら、
「悩むあなたがたには愛がない。あなたたちこそ悔い改めなさい。死刑求刑を取り下げるのは、クリスチャンとして当然のことです。」
と断罪されたそうです。と、ここまではある姉妹からの情報。

「私もこの先生と同じ意見です。無期懲役でも愛がないと思いますわ。有期刑に下げてあげるべきですよ。私、この人たちを支援しているんです。今度は私がお手紙を書こうか、と。思っています」

腰を抜かしかけたところへ、私の(当時)所属教会の牧師(バリバリの社会派)がとどめの一言。
「そりゃそうでしょう。むしろ犯人の御家族をサポートしてさしあげるぐらいでなきゃ。」

おいおい・・・・・・

そのグループが今どうなったのかは知りませんが。

「血も涙もない」のは、あなたたちでしょう。赦してあげなさいって、あなた、神様ですか?
困ったものです。

まったくもって怒りに震えます。

何ですか。

殺人の被害にあって心身傷ついている人間に手紙を送りつけて、「許せ」?

自分が被害者になったときのことを考えているのか?

まさに、こういった偽キリスト教の信者というのは、悪魔の弟子でしょう。

およそまともな人間の心があれば、犯人に対して憤りを覚えるはずで、被害者には同情の手紙を出しこそすれ、「愛がない」なんてことは絶対に言えないはずです。まさに人間の心を失っている。

こういった愛というものを誤解する背景には、聖書を偏って見る見方があります。

都合のよいところだけをピックアップして、自分の妄想を膨らませる。

これは三浦綾子の思想にも見られるもので、「氷点」など、聖書を完全に誤解している。

私のところにも、へんなメールが来ることがあります。


殺人に対して死刑で返すのは愛がない。tomiさん、あなたは罪を犯したことがないのですか?

みたいな。

これって、社会正義と個人の罪とを混同している。

もしそんなこと言えるなら、裁判官は誰も裁けないということになるでしょう。罪を犯したことのない人は誰もいないのだから。

聖書の法律の原理は、「同害刑法」なのです。

つまり、やったら同じことをやられるようにする。これでイーブン。

「目には目を」「歯には歯を」

当然のことです。

例えば、1000円のものを万引きしたとします。そうしたら、1000円の値のものを返すように要求することは当然です。

誰が「おかしい」と言いますか。

もし1000円のものを取られて1000円のものを要求した店側が非難されるなら、社会は泥棒の天国になる。

聖書律法は、それ以上です。1000円のものを盗ったら、その5倍のもので償えと。

牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で償わなければならない。(出エジプト記22・1)

盗みというものは、正味金額のもの以上のダメージを相手と社会に与える。だから、5倍の償いでやっとイーブンになるという考えなのです。

だから、殺人に対しては、殺人以上のもので償わなければならない。それが聖書の償いの原則です。

聖書的な法律に変えるならば、

殺人者は、死刑の上、その持ち物をすべて没収し、被害者に与える。

くらいでなければならない。

これではじめてイーブンでしょう。

リベラルの教会の教えは、ヒューマニズムです。

それも非常に堕落したヒューマニズム。

こんな教えを社会に適用したら、社会はめちゃくちゃになります。

殺人被害者に負担を負わせるなど、聖書と真逆な思想であり、邪教と言うべきでしょう。

 

 

2008年6月11日

 

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