ハリウッドの「反律法主義」は非常に有害である


(1)
『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見て思ったのは、神を憎む者は、責任を自分の罪にではなく、環境に転嫁するということだ。

監督は、さかんに銃規制を訴える。銃があるから問題が起こるのだ、と。

コロンバイン高校の事件によって下半身不随になった被害者を連れて、弾薬を売るKマートに陳情にいき、販売中止を訴えた。

もし銃に原因があるなら、なぜ1963年以前にアメリカでは重大犯罪がほとんどなかったのだろう?

当時も今と変わらず、市民は銃を所持していたのに。

問題は別のところにあるとなぜ考えることができないのだろう。

もし凶器が問題ならば、どうして、刃物の町といわれるドイツのゾーリンゲン、英国のシェフィールド、フランスのサバティエ、日本の関市が殺人・傷害事件件数で他の都市よりも突出していないのか。

問題の原因を環境に求めることは、間違っている。

創世記においてアダムは神に言い訳をした。

「あなたが与えたこの女が私をたぶらかしたので…」と。

女は女で、「このヘビが私をだましたので…」といった。

彼らの問題は、環境にではなく、「神のようになろうとした」からだった。

心の問題である。

アメリカの凶悪犯罪の増加は、1963年に公立学校で祈りが禁止された時から始まっている。

http://www.millnm.net/qanda/beast.html

祈りの禁止は、アメリカの教育から「神の御名」が消し去れたことを象徴している。

アメリカが神を捨てたので、神もアメリカを捨てられたのだ。

これが真の原因である。

「また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。」(レビ26・21-22)

銃規制運動の本質は、問題の原因を「神への反抗」という倫理にではなく、「銃」という環境に求めるので、反キリスト的なのだ。

(2)
この映画の中では、ピューリタンやキリスト教に対する敵意が随所に見られた。

ハリウッドの人々の社会的アピールは一見すると現実的で聖書的であるかのようにみえるのだが、実際は、マルクス主義と同じで、環境決定論、自己の倫理的責任回避である。

『カッコーの巣の上で』において、女ぐせが悪くて病院の規則を守らない入院患者が善人として描かれ、規則を厳しく適用する院長が悪者に描かれている。

『サルバドル』では、私生活がめちゃめちゃで、女にだらしないカメラマンが、抑圧的な政府に対して立ち向かう英雄として扱われていた。

こういう映画を見ると、「私生活でだらしない人のほうが心やさしく、正義感が強い。組織の規則をきちんと守る人は冷たくて、悪いことをしている。」というものの見方が自然に身についてしまう。

しかし、現実には、必ずしも「私生活でだらしない人が心やさしく、正義感が強い」などという傾向はないし、「組織の規則を守る人が冷たくて、悪人である」という傾向もない。

このような描き方の中に、ハリウッドを通じて、社会倫理を破壊しようとするサタンの意図が見える。

ピューリタンを悪く描き、性的解放を好意的に描くハリウッドの「反律法主義」は世界にとって非常に有害である。

 

 

2004年6月14日

 

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