両性具有者の問題
<Sugi様>
皆様の意見に基本的に賛同いたします。
ところで、半陰陽の問題があります。マタイ19:12 「胎内からそのように生まれついた」という部分 で主はそのことをおっしゃっているように思われるのですが、世の中で性同一性障害者とか性転換手術とかいわれているケースにおいて、ある割合でこの問題が含まれているように思われます。
やっかいなのは、たとえば、染色体上は男であっても外性器は女であって、なおかつ、ほうっておくと睾丸が癌化するなどという病気があるのだそうです。
聞くところによると、オリンピックに女性として出場した選手があとで男性と判明したなどというのはこの病気であることが多いとのことです。
染色体上の性と外性器の性とが一致しない人(彼らはもちろん生殖機能を持っていないとのことです。そして、思春期になって自分が男でもなければ女でもないことに気づくのだそうです。)に対して、聖書からはどのように回答するべきでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
<tomi>
私は、神がお与えになった自然的条件のうち、病気や異常と思われるものについては、人間の業によって矯正が可能であると考えています。
たとえば、遺伝病はもともと堕落前のアダムにはなかったものです。創造は完全だったのですから、このような不調和、病気は堕落以後自然界が異常な状態になってからのものとだと考えられます。
遺伝子治療によってこれまで不治とされてきた遺伝病などが克服されることは間違いではありません。そして、両性具有者の場合、創造の本来のあり方から逸脱して生まれた一種の奇形と考えられますので、それを矯正することは罪ではないでしょう。
律法はあくまでも神が与えた自然の枠組み――人種、性別など――に手を加えるなということであって、病気や奇形までも変えるなということではないと思われます。なぜならば、人間に委ねられた「地を従えよ」という命令は、「病的なものの正常化」も含まれるからです。
「それじゃあ、性同一性障害が一種の奇形であったらどうするのか?」という疑問が起きるでしょうが、私は、そのままの状態において外見上正常な男女である場合に、性確認に障害がある人は、一つの個性の範囲にあるとすべきと考えます。
たとえば、物腰や考え方がどうも女性的な男性がいます。私は、無理に彼らをしごいて「根性がたるんでる!男は男らしくなれ!」というべきではなく、その性質のままに生きてよいと考えます。「女性っぽい男性」とか「男性っぽい女性」は神が創造された秩序の範囲内にある多様性の一種と考えるべきです。なぜならば、男性っぽい女性とか女性っぽい男性には社会的に適切な役割があるように思えるからです。たとえば、ヘアメイクには女性っぽい男性がなることがよくあると聞きますが、女性の気持ちがわかると同時に男性的な見方もでることによって独特なセンスが生きるようになるからです。
しかし、このような「女性っぽさ」や「男性っぽさ」が、神の法に抵触するようになれば罪になります。たとえば、女性が女性と結婚したり、男性が男性と結婚したりすることです。
どのような分野においてもそうですが、「個性」は律法の範囲を逸脱しない限りにおいて個性として神にとって有用ですが、律法の範囲を逸脱すると「罪」になります。
「すぐ熱くなる性格」は神のために熱心に働く場合に役立ちますが、すぐに争いごとを起こすと罪になります。穏やかさは一つの美徳ですが、真理を守ることについて穏やかで争いを避けるならば、罪になります。
まとめ:
両性具有は、世界が堕落した後に起こった一つの不調和、異常であり、その矯正手術は罪ではない。
性同一性に関する障害は、不調和、異常としてみるべきではなく、個性の範囲に含めるべき。なぜならば、外見的にも内面的にも生活上においても病的不調和をきたすわけではないから。
どの人間にも男性的な部分と女性的な部分がある。生理学的にも人間は男性ホルモンも女性ホルモンもあわせ持つだろう。「男っぽい女性」や「女っぽい男性」はこのバランスの偏りが普通の人よりも強くでているだけであり、「異常」の範疇には入らないと思う。
律法は、男性として生まれた人は、男性として生きるべきと教え、女性として生まれた人は、女性として生きるべきと教えている。それゆえ、自分の性を外科手術によって替える人は、神が定めた条件に対する反抗であると考えられる。
2004年5月22日
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