相対主義を貫ける人はいない


このHPを読んだ人の中に、「絶対的な基準なんてない」とか「それぞれ自分の価値観を持っていればよい」とか言う人々がいる。

この「相対主義」という名前の流行に戦後日本人は翻弄されてきた。

実際の生活において、相対主義の価値観で生きることは不可能である。

人間は、実際の生活を行う際に、どうしても「絶対主義」を採用せざるをえない。

電車の中で自分の財布をすった人を警察に突き出すときに、その人は絶対主義者になっている。

幼女を殺害して道端に捨てた犯人を非難するときに、絶対主義者になっている。

相対主義は、幻想である。

人間は価値基準を固定させないかぎり生き残れない。

人間はだれでも、基本的で不動の価値基準を必要としている。そうでなければ、社会は混沌化する。無政府状態になり、秩序はめちゃくちゃになる。

相対主義はファッションにしかなれない。

相対主義者は、いきがっているだけである。

相対主義者は、絶対主義者と議論をしても勝てない。まともな人間で、相対主義者に賛成する人はいない。

自分の子供の教育に責任を持っている親で相対主義を貫ける人間はいない。

インターネットなどで「同性愛も、愛の一つの形態だ」と匿名で主張していても、自分の子供を、ホモビデオを教材として見せている学校に入れたがる親はいない。

人間は、よくよく真剣にものを考え、つきつめるならば、どうしても「何らかの固定された普遍的基準が人間や社会には必要だ」という結論に行き着かざるを得ない。

だから私はこう主張する。

万人には、聖書の基準が必要である、と。

 

 

2006年10月31日

 

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