(1)
すでに述べたように、聖書において、門は、審査を行う場所である。
神の幕屋に入る場合には、門のところで動物を犠牲にしなければならなかった。
礼拝者は、動物の頭に手をかざして自分の罪を動物に転嫁させる。
祭司はその血をもって聖所、至聖所に入る。
だから、門は、血を流す場所であった。
ジョン・D・ガール博士は、出エジプトにおいて、民が鴨居と門柱に血を塗った際に、門の足元の部分に溝が掘られていて、そこに血がたまったと述べた。
つまり、上下左右すべて血で塗られた。だから人々は、自分の家に入るときに、血の中をくぐった。
興味深いのは、茅の輪くぐりという神道の儀式である。茅の輪を鳥居に結び付け、そこをくぐると厄を払えるという。
茅を「血」と考えると、まさしく「血の中をくぐる」という点で、出エジプトの過越の記事と関連する。
単なる偶然の一致とは思えない。この儀式の起源の蘇民将来の物語は出エジプト記の過越の記事と似ている。
北海にいた武塔神が、
南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、
当地で宿を求めた。
当地には、将来兄弟が居り、
弟の将来は豊かであったが、宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、
当地で、報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし、免れたという。
武塔神は、その時、「吾は速須佐雄の神なり」と名のったという。
http://www.genbu.net/data/bingo/susano_title.htm
伊勢では、家の軒先に「蘇民将来子孫家門」と書いた札がしめなわに吊り下がっているそうだ。(*)
蘇民将来=茅の輪=血の輪=門の護符=厄除け=過越
という関係が浮かび上がる。
(2)
聖書において、人間の体は家であり、口は門である。
恐らく唇が赤いのは、門のところで犠牲を捧げることと関連があるのだろう。
(3)
礼拝とは、幕屋、宮に入ることであり、神と契約的に一体化することである。
いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10・20)
偶像にささげものをすることは、悪霊と交わることであるとここでパウロは述べている。
礼拝とは、「交わり」である。ここで使われているコイノニアという言葉の古代ギリシア世俗文献では、異教礼拝における神との合一を意味した。また、七十人訳でこの言葉が当てられているヘブライ語hbrは、「結合」を表した(Theological Dictinoary of NT, vol.III, "koinonia")。
ここで間違ってはならないのは、礼拝における一体化は、存在論的一体化ではなく、契約的一体化である。存在論的に一体化するというと、汎神論になる。
我々が結婚して妻と契約的に一体になっても、あくまでも存在論的には一個の異なる人間のままに留まるように、礼拝を通じて契約的に神と一体となっても、我々は被造物に留まる。
バルトをはじめ、多くの異端は、この契約的と存在論的の区別が明確ではない。
(4)
夫婦の関係は、神と被造物、キリストと教会の関係を象徴する。
神がいかに被造物を求め、キリストがいかに教会を求めるか、を示している。
人間に強い性欲本能が与えられているのは、神の被造物に対する強い求めを示すためである。
どれだけ神が被造物の礼拝を求め、契約的合一を望んでおられるかが我々の性欲において表されている。
例えば、動物には繁殖期があり、性欲が発現するのは、一時的である。しかし、人間には一年中性欲がある。
これは、神が被造物の礼拝を常に求めておられることを示す。
(5)
繁殖は、礼拝の結果である。
「子宮」という言葉は、この真理をよく示している。
性行為は礼拝行為を象徴し、性行為によって「宮」の中において実が結ばれる。
我々は礼拝によって、神と正しく結ばれるときに、多くの実を結ぶ。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 (ヨハネ15・4-5)
(6)
サタンは、神のライバルとして、礼拝者を求め、サタンの宮においてサタンの子供を増やそうとしている。
それゆえ、聖書に記された正しい礼拝から人々を遠ざけようとしている。
教会に異端を送り込む目的は、この正しい礼拝を阻害するためである。
教会が異なる礼拝をし、それを通じて少子化に追い込み、自分の子供達を増やして、世界をサタン化しようとしている。
サタンも、人間に対して「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ」と命令している。
<結論>
我々は、聖書に忠実な正しい教えを回復し、教会に正しい礼拝を回復しなければならない。
被造物の礼拝を求めておられる神は、我々がこのようにすることを強く求めておられる。それは、我々の性衝動から類推できる。
正しい礼拝が回復すれば、神の子どもたちが増える。
教会が多産になることにより、世界から悪魔的な影響は消えていく。
今、めちゃくちゃになった世の中を回復させる方法は、悪霊礼拝であるヒューマニズムのうちにはない。
クリスチャンが正しい礼拝を回復する以外に解決はない。
(*)ユダヤ人も、「メズーサ」と呼ばれる律法を書いた紙が入った護符を柱などに貼り付ける。これは、聖書の「律法を門柱に書き付けろ」との命令からである。