神道の取り扱いについて


神道は、その成立に秦氏が関与している。

秦氏は、その起源は弓月国というシルクロードにあったユダヤ系キリスト教国である。

弓月の君が、多くの人々を連れて、日本に入ったと日本書紀にある。

だから、神道の中にキリスト教の要素がたぶんに入っている。

また天皇制も秦氏が関与している。だから、天皇制にキリスト教の要素が多くある。

しかし、これは、「だから神道を受け入れるべきだ」ということにはならない。

今、神社において礼拝するクリスチャンがいれば、偶像礼拝として断罪されねばならない。

なぜならば、神社は、正式にキリストを神として認めていないからだ。

キリストを唯一の道、神、聖書が教えるヤーウェであり、我々の救い主であり、我々を罪から救う唯一の主権者であると認めない以上、たとえ起源が一致していても、そこで礼拝することはできない。

ここは、厳密な区別が必要である。

神道が起源が同じだから、仲間だと考えるクリスチャンは、「ものみの塔も起源はキリスト教だから仲間だ」というのと同じだ。

神道は教えの内容が決定的に異なっている。

だから、我々は、それを受け入れることは絶対にできない。

このことは、シンクレティズムに陥る重大な落とし穴であるから注意を要する。

我々が神道について調べる意味は、日本にもともと住んでいた人々にクリスチャンがいたのではないか、そして、日本の文化を形成する上でクリスチャンの働きがあったのではないか、また、もしかして神は先祖のゆえに日本人を復活させ、クリスチャンにしてくれるのではないか、ということを探ることにある。

もし神道側がはっきりと聖書の内容に完全に同意し、様々な異教的要素を払拭するならば、我々は受け入れる可能性がある。

しかし、そうではない場合、それはあくまでも異なる宗教であって、我々が信じ、同化すべきものではない。

この問題に関しては、柔軟さと厳密さを同時に持たねばならない。

 

 

2010年8月16日

 

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