社会は三位一体を基礎として構築されるべきである
聖書は男女差別を教えていると考える人々も、また、男女平等を教えていると考える人々も、正確に理解していない。
人間の平等と上下関係は、神の三位一体の関係に由来している。
人間は神の似姿なので、人間存在は個人的にも社会的にも神に似ているのである。
神の3人格は互いに対して平等である。3者は互いに永遠であり、無限である。
しかし、3者の間には序列がある。子や父に従い、聖霊は両者に従われる。
「平等でありながら、同時に社会的に序列がある」というこの三位一体の間での関係こそが人間社会の関係の基本である。
人間は、これを模範として社会を構築しなければならない。
人間は、互いに平等である。男女の間に「本質において」序列は存在しない。男も女も平等に創造された。
しかし、男女間には「機能において」序列がある。女は男から作られた。しかも、助け手として。女は男が神から託された仕事を実現するためにヘルパーとして与えられた。
それゆえ、社会的機能において、女は男の下に位置する。
髪の毛は、頭を保護する役割を果たす。聖書では、髪は男女の社会的機能を表現しているという。(1コリント11章)
長い髪は、保護されるべき女にふさわしい。髪が多ければ多いほど、ものが当たったときに衝撃が少ない。
男は神の権威を象徴する存在であるから、礼拝時に被り物をつけるべきではない。
男は中年から髪の毛が薄くなるか、白髪になる。これは、もはや少年時や青年時のように保護されるべき存在ではなくなった、ということを象徴しているのだろう。
中年以上の男性は、社会を担い、女性や子供を保護する立場にあるから、保護の象徴である髪の毛も不要になるのだろう。
三位一体論に基づかない社会学は無意味である。人間社会は、三位一体を模範として構築されなければならない。
2006年11月26日
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