公共の名のもとで進む個人の自由への侵害
鳩山首相がタバコ税の増税の理由について「みなさんの健康を心配してのことです」と言った。
健康について心配してくれるなんていい首相だと国民が思ってくれるとでも考えているのだろうか。
歴史上、独裁者は、国民の健康について心配した。
国が何かの理念を持って、その理念を押し付けるというのは、越権なのだ。
わが国は、「信教の自由」が保証されている。
何を信じようが自由だ。
国に何かを信じるように命令される覚えはない。
我々はそんなことを期待していない。
放っておいてほしいということ。
国は最低限のことをすればよい。
NHKが我々に受信料を取る名目は、「公共放送を支援してほしい」だ。
しかし、あれは公共放送ではない。
ジャパンデビューでは「日本の近代史は悪者の歴史だった。天皇はアジアを蹂躙したヒトラーのような者だった」という刷り込みを行おうとした。
NHKの歴史観は、進化論に基づく。
こんなものに金など払いたくない。
「公共」は幻想なのだ。
思想と呼ばれるもので、「神でもなくサタンでもない」中立なものなどない。
どっちかだ。「聖書的か、非聖書的か」の。
だから、放送やら教育やらは、公共の名で人々に押し付けてはならない。
もし放送や教育をし、金を取りたいのであれば、「強制」をやめるべきだ。
見たい人、知りたい人が、そのたびに金を払って見る、学ぶ形態でなければならない。
そうでなければ信教の自由への違反だ。憲法違反だ。
国に健康など心配してほしくない。
それは我々の責任だ。
福祉国家とは、独裁と紙一重だ。
「心配してますよ」との言葉を使って、過去、独裁者がどれだけの人を殺してきたか。
共産主義は一見すると人々のためであるように見えるが、やっている内容は「思想信条の強制、それに逆らう人々への迫害」である。
国が行えるのは、健康の心配ではなく、「迷惑の心配」だ。
国が取り締まれるのは、他人に迷惑をかける行為の取り締まり。
飲酒運転の規制は聖書的だ。なぜならばそれによって他人の迷惑がかかる。
しかし、シートベルトやヘルメットをしていなくても、他人に迷惑はかからない。
もちろん、死んだ場合に家族に迷惑がかかるが、それは、個人の責任の範疇。
シートベルトをしないで、害をこうむるのは、本人だ。だから、その危険を冒すことは、本人の自由の範囲に属する。
だから、こういう「おせっかいな法律」は、個人の自由への国家の侵害に当たる。
国やNHKが公共という名で人々を拘束する恐れがあるということ、そして、我々の自由が脅かされる恐れがあるということ、市民革命を戦った人々は、こういったことを非常に重視した。
この点で我々がぼけっとしていると、知らないうちにがんじがらめに縛られることになるので注意が必要だ。
2009年12月25日
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