黙示録はキリストの再臨や世界の終末に関する書物ではない4
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黙示録のテーマは、明らかに、その当時の教会の現状と関係している。それは、試練の時代にクリスチャンを慰めるために記された。
J・スチュアート・ラッセルは、次のように述べた。
「小アジアの諸教会に対して、その利益を考慮して使徒が送った書物が、わけのわからない特殊用語や、解釈不能な謎の言葉で記されているはずがあるだろうか?もしその書物が、遠い未来の時代の秘密を説き明かすために記されたとしたら、当然のことながら、それは、その直接の読者にとって理解不能なものでしかないはずではないか?それは理解不能というだけではなく、無意味で役立たずな本ということにならないだろうか?
仮に黙示録が、よく言われてきたように、フン族やゴート族、サラセン人、中世の皇帝、法皇、プロテスタント宗教改革、フランス革命に関する預言であるとしたならば、それがどうしてエペソ・スミルナ・フィラデルフィア・ラオデキアの教会のクリスチャンにとって意味があるだろうか?
とくに、初期のクリスチャンが置かれていた実際の状況について考えてみよう。彼らの多くは、ひどい苦しみを耐え忍び、全員が近づきつつある救いの時を熱望していた。
そのような彼らに対して、同感するにはあまりにも遠くかけ離れすぎている歴史的出来事で埋め尽くされ、現代の最も鋭い批評家ですら一つの点でも一致した意見を持つことのできない難解な文書を送ることにいったいいかなる意味があるというのだろうか?
はたして、使徒が同時代の苦難と迫害の中にいるクリスチャンに対して、わけのわからない、未来に起こるはずの難解な出来事の預言を送ることによって、彼らを侮辱したと考えることができるだろうか?
もしこの書物が宛先人の信仰と慰めのために送られたとしたならば、それは彼らが実際的・個人的な関心を持つことのできる問題を扱っていると考える以外にはない。この問題は黙示録を説き明かすための真の鍵を提示してくれる。『黙示録は、必然的に、同時代的問題を扱っていたはず』なのだ。
考えられることはただ一つ。黙示録は、第一の読者に理解してもらえるように記されたということである。そして、この書物の中に記されている出来事は、彼らの同時代の出来事であり、比較的短い時間において起こるはずの事柄だ、ということである。」(J. Stuart Russell, The Parousia: A Critical Inquiry into the New Testament Doctrine of Our Lord's Second Coming (Grand Rapids: Baker Book House, [1887] 1983), p. 366.)
2005年12月20日
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