自分が否定しているものに自分がなってどうする?
ダビデの星は、5世紀の考古学的証拠しかなく、ダビデがそれを使っていたかどうか分からないので、古代日本とイスラエルの関係についてそれを用いて論を立てるのはおかしい、という人がいる。
たしかに、科学においては、証拠がないのに、「事実だ!証明された!」と言ってはならないし、我々は、「証拠はないが、○○は証明された!」と言うつもりはない。
しかし、彼らがさらに一歩進んで、「だから、こういった日猶同祖論はトンデモであり、考慮するに足らないものだ。」と考えるのは間違いである。
科学が「証拠がない」という場合、常に<今のところ>証拠がないといっているのであって、<この宇宙のいかなる部分にも未来永劫絶対に>証拠は存在しない、と言っているわけではないのだ。
いつか見つかるかもしれない。ダビデの星が、紀元前10世紀頃にダビデ王の象徴として用いられた証拠が出てくるかもしれない。
「証拠は未来永劫見つからない」というのが事実であれば別だが、このような証拠が出てくる可能性はけっして低くない。
ならば、どうして「ダビデの星を根拠に日猶同祖論を主張するのはトンデモだ」といえるのか。
インターネットで、創造科学を疑似科学と見たり、日猶同祖論をトンデモ扱いする人々は、自分で科学的だと主張しているわりには、科学的認識の枠組みを越えて、自分自身が権威になり、ドグマになっていることに気付いていない。
そもそも経験科学を信奉する人々は、「疑似科学」とか「トンデモ」とかの断定的な言葉を使用できないはずだ。
経験科学は、常に「末端を開放する」立場なはず。
自分の立てた説に対して「いやそれは違うよ」と指摘する人々をむげに拒否しない立場なはず。
「疑似科学」とか「トンデモ」というレッテルを貼る行為が、すでに自分が述べている「疑似科学」とか「トンデモ」的な権威主義的な態度なのだ。
権威主義を否定し、常に知についてオープンな立場であろうとする人々が、自ら権威になり、ドグマをつくり、他者を自分の判断基準でバッサバッサと切っていく。
これこそ、権威主義の権化である。
ダビデの星を巡る日猶同祖論の議論を批判したいなら、「ダビデの星が本当にダビデが使用していたかは今のところわからない。またイスラエルと古代日本との関係もそれを根拠として主張できない」とだけ言えばよい。
それよりも進んで、「日猶同祖論はトンデモだ。」と言ったら、そこであなたは権威主義者、ドグマチスト、宗教家だ。
自分が否定しているものに自分がなってどうする?
2004年10月23日
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