改憲論議で浮き彫りになった「一と多」の問題2
「日本のいまの憲法は西洋に引きずられて権利の方へ傾斜した。後世に残す憲法としては、親孝行というのは自然な形でしたほうがいい」(3月11日、杉浦正健氏)
こういった道徳論が出てきたのは、戦後の知識人が道徳的空白を作ったからである。
朝日文化人や日教組など左がかった人々は、戦前の体制に対する反動から「道徳教育反対」「愛国心反対」「戦争反対」と叫んだが、代替案を提供できなかったので、戦後の教育には道徳的真空が生まれたのである。
真空が生まれればそこに空気がすばやく入り込むように、真空状態を長く維持することはできない。何かをそこに入れなければならない。しかし、彼らはそれをもっていなかった。「教育勅語がだめならじゃあ何を基準として持てばよいの?」という疑問に答えることができなかった。
朝日新聞は何度かホモ教師を紹介し、「愛にはいろんな形がある」という発言を肯定的に紹介していた。
古い道徳を破壊しようと叫ぶなら、新しい道徳とは何かを示すべきなのにそれができない。破壊しっぱなしである。これは、左翼運動に共通する欠陥である。
ソ連は、マルクスにしたがって「神も道徳も存在しない」と主張したが、結局、レーニンやスターリンの銅像を建て、警察権力を用いて倫理的混沌を防ごうとした。国家の体裁を維持しようとすれば、「無道徳」の状態は絶対にありえない。人間が社会的動物である以上、「多」の永続は不可能である。「多」は不可避的に「一」に移行する。
進化論を主張し、世界は偶然によって生まれたと主張すれば、当然のことながら道徳に価値はなくなる。今日の知識人は、進化論と自由を並立させようとしているが、無理な話である。進化論による道徳破壊の結果は、国家による統制である。
我々は、原理から考えるべき時に来た。情緒的な対応では足りない時代になった。
おせっかい国家の介入を防いで市民の自由を守るためには、「一」と「多」を永続的に成立させる原理が必要だ。
自由を愛する人間には三位一体の神とその規範が必要なのだ。
2004年4月30日
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