クリスチャンは世界の中心である
クリスチャンの体は、神殿である。
神殿ということは、神の宿る場所。
だから、クリスチャンの体は、世界の中心である。
我々は、クリスチャンになると、以前とはまったく異なる自分になったことに気づくだろう。
その一つは、影響の大きさである。
それまで気にしていなかったささいな善行または罪でも、結果が大きくなる。
よいほうにも悪いほうにも大きく針が揺れるようになる。
我々は神を宿しているので、自分が考えるよりも、我々が世界に与える影響は大きい。
私の場合、誰かと会う場合に、その人に大きな影響を与えることを知っている。
だから誰に会うか気をつけている。
神の御言葉に触れた場合、その人は、いずれかの選択を迫られる。
服従か、不服従か。
いずれかを選択し、そして、それに対して裁きが来る。
だから、神の言葉に触れるということは、自分に大きな影響がある。
それは、イースト菌のようなもので、入ると粉全体を膨らませる力がある。
それまで平和だったところに波風が立つ。
我々が歩いて人々と接触することは、その周囲の人々に触媒を与えているようなものだ。
人々は、我々との接触によって何かそれまで心の奥底に眠っていたものが激しく動くことに気づくだろう。
イエスが悪霊にとりつかれた人に近づくと、彼らは大きな声で叫んだ。
同じように悪霊にとりつかれた人々は、我々と接触することによって心のうちにあるものが騒ぎ暴れるのを感じるだろう。
我々は、移動式神殿、契約の箱なのである。
契約の箱が入ると、よいことも悪いことも起きる。
ペリシテ人が自分の神ダゴンの前に契約の箱を置いておき、朝になるとその偶像が倒れているのを発見した。
また契約の箱を持っていると疫病がはやったので、イスラエルに進んで返しにきた。
契約の箱の中をのぞいた人々は死んだ。
契約の箱が牛の背から転げ落ちそうだったのでそれを手で支えようとした人が死んだ。
我々は、かつて契約の箱がそうであったように、周囲に影響を及ぼさざるを得ない。
我々の語る言葉、聖書的な言葉に対して相手がどのように対応するかによって、相手の運命が変わってしまう。
我々の祈りは普通の人のそれとは異なる。
信仰をしっかり持つならば、ものすごい力がある。
サタンはその祈りの力を知っているので、我々を不信仰に陥れようとしている。
「どうせだめだ」と思わせることができれば、祈りの力を封じ込めることができる。
不信仰の人が祈っても効き目がないからだ。
ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、サタンがクリスチャンの祈りの効力を封じ込めるために作り出した間違った教えである。
「まもなく終わりがくる。
クリスチャンが何をしても反キリストの世界支配は実現し、大虐殺が始まる」と。
こんなカルトの教えが普通の教会に蔓延してしまった。
それによってクリスチャンが文化建設によって世界を変え、世界を平和と愛に満ちた場所にするという理念が消えてしまった。
悪魔のやることを黙って見るようになった。
祈らなくなった。
「大患難は、聖書に予言されているから仕方がない」といって。
我々は、祈るべきだ。
我々の祈りは強烈なパワーを持っている。
ぜひ悪魔の帝国が滅亡し、神の国が地上において拡大するように。
2010年2月20日
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