聖書は自衛戦争を合法としていることについて
<zion様>
富井先生
いつも聖書に立脚したご意見に、深く学ばせて頂いています。
私は、以前憲法9条に関して教えて頂いた者です。
そのとき、もう少し詳しくお伺いしておけば良かったのですが、前回お答え頂きました、「聖書は、自衛戦争を合法としている」ということに関して、もう少し詳しく教えて頂けませんでしょうか。
なぜなら、ある人々は、たとえば山上の説教のなかで
『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
のような箇所であるとか、イエス様の言われた、「剣を持つものは剣によって滅びる」という箇所や、そしてなによりもイエス様が無抵抗に十字架につけられていったことをもって、聖書的に憲法9条を肯定いたします。
このようなクリスチャンとしての個人の倫理を背景に絶対非戦論を展開する方々に、どのように「聖書は自衛戦争を合法としている」と理解してもらえるのか、教えて頂けましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
<tomi>
ご掲示をありがとうございます。
(1)
「目には目を…」の個所は、その次の「1ミリオン行け…」と考えあわせると、「ローマ軍に対する独立運動を止めろ」という意味に解釈すべきと思います。
当時ローマは、属州において、通行人を呼んで強制賦役を課したり、物を運ばせることができました。これはペルシャ帝国の習慣からローマが取り入れた制度で、属州民にとっては屈辱的な法律でした。
ユダヤ人は、「自分たちは選民なのに、どうして異邦人に服従しなければならないのか?」と問いかけました。そして、ある人々は武力で独立を勝ち取ろうと運動していました。
しかし、イエスは「この荷物を持って1ミリオン行け、と命令されたらすすんで2ミリオン行きなさい」と言われました。これは、文字通り倍歩けという意味ではなく、自分の誇りを捨てて、苦々しい思いからではなく、積極的に服従せよ、という意味と解釈すべきと思います。
イエスが問題にされたのは、ユダヤ人のプライドでした。彼らは、自分の肉に頼り、神の恵みによって選ばれたことを忘れ、自分の血統にこだわっていました。聖書では、彼らが選ばれたのは、彼らが優れていたからではなく、純粋な恵みによっていると書いてあります。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」(申命記7・7-8)
しかし、ユダヤ人は、選ばれていることを自分の固有の権利と考えていました。
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3・9)
ユダヤ人が、他民族に支配されるようになった真の原因は、律法違反にありました。
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。…私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」(申命記28・1,13)
「あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。」(申命記28・43-44)
しかし、ユダヤ人は、この真の原因を解決しようとせず、神に対する不従順を続け、むしろ、その民族的プライドから、武力によって支配を築き上げようとしました。
イエスの「右の頬を…」や「1ミリオン行け…」の戒めは、このような間違った解決法を捨てて、「へりくだる」方法を採用せよとの教えです。
キリスト教が「倫理の宗教」と呼ばれるのはこのゆえです。キリスト教は力に頼るのではなく、へりくだって神の戒めに従うことによって支配を獲得することを目指すものです。
それゆえ、これらの個所が「無抵抗」を勧めていると解釈することはできません。
聖書のどこにおいても、「他国の侵略に抵抗してはならない」とか「戦争はことごとく否定しなければならない」とは述べられていません。
イスラエルには常備軍はありませんでしたが、20歳以上の男子は徴兵されました。もし侵略への抵抗が罪であるならば、兵役そのものを神は許されなかったはずです。
我々の体には、免疫のシステムがあり、外部からの攻撃に対して抵抗する仕組みがあります。自分の体や家族、国を守ることは、神の秩序を守るという意味で重要なことです。
(2)
「剣を取る者は…」は、剣を抜いて大祭司のしもべに立ち向かったペテロに対する戒めの中で語られた言葉です。
弟子たちも、当時のユダヤ人の一般的な考え方に毒されており、武力による抵抗運動を肯定していました。そして、メシアのことを、ローマからの解放者、イスラエルの民族的栄光の実現者として見ていました。
しかし、イエスの取られた方法は、むしろ、ローマによって処刑されることによって、王位を受けるという方法でした。このように素直に処刑されたイエスに弟子たちは衝撃を受けました。ローマと戦い、イエスに従わないユダヤ人指導者たちと戦って、軍事的に支配を確立してくれると考えていたのに、あっさりと殺されてしまった。
この失望はイエスを歓喜して迎えた群集も同じでした。彼らは間違ったメシア観を持っていました。
山上の説教の中でイエスは、この地上に覇権を確立する者は、「柔和な者」である、と述べておられます。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5・5)
へりくだった神に忠実な者が地を支配することになる、という戒めです。
しかし、弟子達は、誤ったメシア観を持ち、ユダヤ民族は、武力によって地を相続すると考え、剣を取ったのです。このような誤謬は、今のネオコンにも通じるもので、ユダヤ人の根本的な過ちです。ネオコンはユダヤ系アメリカ人で、中東諸国を武力によって民主化することを目指しています。
そして、プレ・ミレを信じるアメリカのファンダメンタリストたちも、同じように武力による支配を肯定しています。彼らの支配に関する考え方は、「再臨のメシアによる武力的覇権獲得」にあります。
しかし、キリスト教の伝統的・正統的な支配に関する考えは、「福音伝道において働かれる聖霊による内的変革」にあります。
人々がキリストを信じて心が新しく作り変えられることによって、神に従い、立てられた権威に服従する中において、信頼を獲得し、徐々に権力を与えられていく、というのです。
「剣で覇権を獲得しよう」というペテロの考えは、ユダヤ教、そして、現在のネオコンの考えと同じであり、イエスの教えにまっこうから反しています。
まとめ:
「右の頬を…」「1ミリオン…」や「剣を取る者は…」は、侵略者に対する抵抗を禁止する教えではなく、「武力による覇権拡大」を否定する教えです。
申命記などに記された神の契約は、「契約の規定(律法)に従えば強くなり、逆らえば弱くなる」という倫理的因果律に貫かれています。
覇権獲得の方法としての武力の使用禁止の教えを、違法な侵略者に対する防衛に適用することはできません。
2004年5月2日
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