神は基準以外ではありえない4
教会に来ているのだがなかなか洗礼を受けない人がいる。
彼らはきまってこういう。
「どうも赦された気がしないのです」と。
彼らは、法的事実と、感情を混同している。
イエスを主とする信仰を告白しているなら「法的に」赦されたのである。
「赦された!」という感情は、後に事実に伴ってわいてくるものである。
感情を優先する間違いはクリスチャン的ではない。
聖書的思考とは、「法的」な事実を優先する思考法である。
なぜならば、神は契約的に行動されるからだ。
どんなにイスラエルがひどい罪を犯して遠く離れても、契約を優先して、赦し、回復される。
神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。(出エジプト記2・24)
今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。(同6・5)
あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。・・・わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。(レビ記26・38、42)
主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。(詩篇106・45)
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43・25)
・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31・34)
2008年2月12日
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