<O様>
1)昨日御報告した立花隆氏の文章中、「パウロ神学とイエスの教えには乖離があることは今や常識である。」とありました。そんな馬鹿な、と思うのですが、実際如何でしょうか?
<tomi>
パウロ神学とイエスの教えには乖離はありません。この問題については、ウェストミンスター神学校創設者グレシャム・メイチェンが「パウロ宗教の起源」(http://www.wlpm.or.jp/fukkan/index.htm)において証明しています。
パウロが考えた福音とイエスの福音に仮に乖離があるとすれば、新約聖書は内部矛盾しているということになり、それはすなわち、「使徒の間では根本的教理において意見に違いがあった」ということになり、すなわち、「彼らはイエスの証言者ではなかった」ということになります。
しかし、イエスご自身は12弟子及びパウロを「使徒」として任命し、「私の業の証言者」として任命されたのです。
しかし、聖霊があなたがた(つまり、使徒)の上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1・8)
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。(使徒1・22)
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)
新約聖書の権威はこの「イエスご自身から直々に証人として任命された使徒の手による」ということにあります。
ですから、パウロやペテロやヤコブら使徒の教えは、すなわち、イエスご自身の教えなのです。
立花氏のような考え方は、聖書の「自己証明性」を前提としていないリベラルな考え方です。
つまり、聖書そのものを「神聖不可侵の絶対的権威」とする正統的・歴史的なキリスト教に立たず、人間理性を絶対的権威とし、聖書すらも批評の対象にできると考えるリベラリズムの立場に立っているのです。
しかし、今から200年も前に、人間理性を最終審判者とする考えは、ヒューマニズム自身の批判(経験論の理性批判)によって崩壊しており、それゆえ、立花氏の見解を我々が受けいれなければならない理由はまったくありません。
我々は、聖書は絶対であり、神聖不可侵であり、それに触れるものはいのちの書から名前を消され、呪いを受ける、という立場を取るべきです。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22・18-19)
<O様>
2)先日のメッセージの中で、聖書学び会でいのちのことば社の「新聖書註解」を御紹介されていましたが、いのちのことば社の出版物はたいていディスペンセーショナリズムのプレミレのようなのですが、大丈夫でしょうか?
<tomi>
『新聖書注解』しか、聖書信仰に立つまともな注解書が日本にはないからなのです。今では新しくいい本が出ているかもしれませんが。
たとえディスペンセーショナリズムであっても、聖書信仰に立たないリベラルの注解書よりはマシでしょう、ということです。
日本人が正しい教えを得るには、いのちのことば社系から出ている本をよくよく吟味して読む以外にはありません。あと改革派系の出版社の本もありますが、一般の人々が読むにはあまりにも難解であったり、翻訳がまずかったりという欠点があります。
『新聖書注解』は、戦後の福音派のリーダーたちが著したものであり、改革派系の先生もいて、ディスペンセーショナリズムの影響が少ない場合もあります。しかし、今の時代においてディスペンセーショナリズムの影響から解放されている先生はごくごくまれなので、すべての教師について注意しながら読む必要があります。
<O様>
3)姉妹教会が閉鎖されて、ライブラリが希望者に分与されました。その中で私はホッジの「組織神学」全3巻と、フランシス・シェーファー全集全5巻を分けて頂きました。これからの学びの中で、この2編をどのように読んでいったら良いのでしょうか?
<tomi>
ホッジの組織神学は学生の時に、いのちのことば社洋書部でバイトをしていたときに、バイト代で買いました。13000円くらいしたかな。
シェーファーは、ラッシュドゥーニーの影響を強く受けた人です。『そこに存在する神』とか『それではいかに生きるべきか』は名著と言われています。
ホッジについては手放しで推薦できますが、シェーファーは、非セオノミー、非ポスト・ミレであり、この点において注意を要します。
シェーファーは、ラッシュドゥーニーやゲイリー・ノースの著書を読んでしまうと、まことに物足りなくてつまらない印象を受けるでしょう。
彼は、まだまだディスペンセーショナリズムに犯された福音派の枠組みから抜け出ていません。どっちにも顔を立てようとして、煮え切らない考え方をしています。
シェーファーの著書は絵画や文明全般に関する解説は興味深いが、それ以外についてはあまり勧められません。