心理学者が神学に口を出すとろくなことにならないわけ
今、心理学が流行していて、彼のような心理学者がクリスチャンの世界においても幅を利かせるようになっています。
これは、非常に危険なことです。
なぜならば、心理学者は、心理学という経験科学の手法を用いて物事を論じることになれているからです。
彼もさかんに、私のことを「神学者」といい、論理学など自然科学の手法を取らないからだめだ、というようなニュアンスで批判していました。
しかし、律法と福音など、聖書啓示に関する事柄について、経験科学の手法を用いては絶対なりません。
聖書啓示は、神の御言葉であり、それゆえに、疑いの対象にはなりえないからです。
経験科学は、「本当にそうか?」と疑いから出発します。
何事も絶対に正しいと言えるもの(ドグマ)として見ず、すべてを疑い、実験と観察を繰り返し、検証することを本筋とします。
LUKE氏は、この手法を神学の領域にまで拡大しています。
しかし、神学は、経験科学の手法が通じない領域なのです。
「神は存在するか?」「御言葉に誤りはあるか?」など、疑いから出発することを、聖書は厳格に禁じています。
神と聖書は、認識の大前提であり、それを疑うことは絶対にできません。
もし疑うことができるならば、それは、「人間の認識能力は絶対であり、神の啓示すらも評価できる」と主張しているのと同じであり、それゆえ、このような認識論は不可避的にヒューマニズムになるのです。
神を疑う人は、「自分は神よりも偉大だ」と述べているのに等しいのです。
だから、クリスチャンはこのような不信仰な認識論を採用してはならない。
LUKE氏をはじめ経験科学者は、こういった知識に関する基礎的な歴史的議論をすっとばして、自然界や社会を見るような見方で聖書を調べようとする。
だから、とんでもない見解が出てくるのです。
彼のような認識論で聖書を研究すると、「エリコの城壁が自然に倒れたのは嘘だ。あれは後代の教会人の加筆である。」というようなことを言い出す。
自分の認識能力や常識などを基準に聖書を評価していくという傲慢な態度では、聖書から学ぶことは絶対にできません。
聖書は、基準なのです。基準以外の何物でもない。
基準を疑う人はいません。1mの原器に向かって「これは本当に1mなのだろうか?」と尋ねる人はいません。なぜならば、1mを定義したのがその原器だから。
聖書を疑う人は、「私は世界一高い山よりも高い山に登った!」と証言する人に等しい。
基準であり、最高権威であるものを評価することは、原理的に不可能なのです。
だから、サタンですら、聖書を疑うことをしない。
誘惑に対してイエスが御言葉で答えると、サタンは退散しました。
御言葉が最終権威だから。
水戸黄門で、最後に紋所を示したら、それで決着です。
聖書の御言葉が示されたらそれ以上は沈黙しなければならないのに、LUKE氏はごねている。
律法をあらゆる領域に適用することを拒否するのは、「御言葉は、基準(=最終権威)ではない」と言っているのと同値です。
こういった姿勢の基本には、学校で叩き込まれる「人間は万物の尺度である」というヒューマニズムの教えがあります。
彼は、この世の誤謬の考え方から抜け出ていないのです。
彼は、クリスチャンではなく、ヒューマニストです。
2005年11月30日
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