聖書啓示に対する傲慢を捨てるべきだ2


このような間違った科学観によって、学校教育を受けた人々は宗教を一段劣ったものと見るようになった。

「科学は証明された事実に基づき、宗教は証明されていない事実に基づく」と考えている。

「我々は、宗教人と違って、迷信や思い込みに左右されない」と勘違いしているのだ。

「科学法則に従わないことは絶対に起きない」というのは、迷信であり、思い込みである。

彼らは立派な宗教人である。

彼らは、認識論において決定的なミスを犯している。

学校教育によって、このようなミスが広がり、それが多数派を占めているので、「科学イコール真実、宗教イコール迷信」のような先入観から解放されないのだ。

このような議論において、彼らはきまってこういう。

「いや、法則に従わないで起こることはまったくないと言っているのではなく、現実性についていっているのだ。たしかに、イエスが水の上を歩くことは絶対になかったとは言えないかもしれない。しかし、それは実際の世界においては通常起こらないし、たとえ起こったとしてもそれが何の意味があるか。もっと現実的になるすべきだ」と。

このような人々は現実的ではない。

なぜならば、もし世界が科学的法則オンリーによって、もしくは、世界が科学的法則によって圧倒的に支配されていると信じるならば、人間に希望はないからだ。

人間は、宗教を信じる。歴史上、ほとんどの人間は宗教人だった。

どの未開部族でも宗教を信じている。宗教のない人種は一つもない。

なぜか。

自然の法則だけで物事を解釈できないからだ。

人生は不思議に満ちている。そして、人間は不思議を常に期待する。

だから、祈るのだ。

もし、自然法則がすべてであり、「物事は100%もしくは99%、科学的法則によって解釈しなければならない」というならば、希望はない。

そのように主張する人々は、実質的に自分と他者に向かって、「祈ってはならない。神仏を期待してはならない」と言っているのだ。

だれがそんな命令聞くだろうか。

我々の希望は、祈りにある。

超自然的な結末にある。

科学主義者は、「世界は弱肉強食で動いている」と言うだろう。

しかし、人間はそんなことでは割り切れない。

もし水戸黄門が、「悪い役人が商人とグルになって善良な町民をいじめ、最後に町民は濡れ衣を着せられて牢屋にぶちこまれて処刑された」というストーリーであるならば、そんな番組すぐに打ち切りだろう。

人間は、「正義が勝つ」ことを期待する。弱者が救われることを期待する。

それが人間の善性、良心である。

科学万能主義は、このような良心を踏みにじるのである。

だから、普通の人間は、調和を取って生きている。

「科学はよいものだ。しかし、すべてを解釈できるわけではない」と。

これが人間が不可避的に宗教的である理由だ。

人間は、宗教から離れることは絶対に不可能なのだ。

だから、もし科学万能主義者が、我々に向かって「もっと現実的になれ」というなら、我々も彼らに同じことを言う。

「そういうあなたは、現実的ですか?正義や弱者が不義の人々や強者に踏みにじられているのを見て満足できますか?」と。

宗教を否定する人々は、科学的でもなければ、現実的でもない。

もっと物事は深く考えるべきだ。

 

 

2009年5月21日

 

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