木は契約的合一を象徴する


しばらく象徴学の話をしたが、象徴学は非常に重要である。

なぜならば、聖書は象徴表現を頻繁に用いるからだ。

象徴が何を意味しているかを読み解かねば聖書を正しく読むことは不可能だ。

木は、契約をあらわす。

イエスはご自身をぶどうの木と呼ばれた。

そして、クリスチャンは枝である。

枝が木に結びついていれば実を結ぶ。切り離されていれば、実を結ばずただの枯れ木になり、薪にでもされてしまう。

結びつくこと。これは、契約的合一を意味する。

我々がキリストと契約関係にあり続けること。

契約の中にいて、神との関係がしっかりしていれば、必ずキリストの実を結ぶ。

その人を通じて人々が幸せになる。祝福を周囲に与える人間になれる。

キリストとつながるということはどういうことかというと、キリストの法を守るということだ。

法を守り、守れなかった場合には、悔い改めをし、関係修復をすること。

悔い改めないと、キリストから栄養が来なくなって、枯れてしまう。

霊的な死人になる。

木は、悪魔との契約も象徴する。

「悪い木は悪い実を結ぶ」とイエスは言われた。

だから、実を見て人を判断しなさいと。

誰かが、悪事を働いて、それをいたるところで繰り返しているならば、その人は、悪魔と契約を結んでいるのだ。

悪魔の木につながっているので、悪の実を結ぶ。

契約的合一とはこのように必ず実を結ぶ。

911事件のようなとんでもない悪事を働くことができるのは、その首謀者が悪魔と契約を結んでいるからだ。

秋葉原で無差別殺傷ができるのは、悪魔を礼拝しているからだ。

誰と契約を結ぶか我々は注意しなければならない。

結婚は契約なので、夫婦となることは、その相手の実を結ぶことを意味する。

自分は枝で相手は木である。夫婦は互いに配偶者の内側にあるものを結ぶようになる。

だから、職業的な犯罪者、つまり、職業的に盗みを働いたり、恐喝などをしている人とは離婚できる。

出来心で犯罪を犯した場合ではなく、職業的に罪を犯しているような人と結婚関係にあれば、自分もその人と同じ実を結ぶ。

クリスチャンであるにもかかわらず、公然と罪を犯し悔い改めを頑固に拒絶する人とは離婚できる。

聖書では、悪人のクリスチャンとは食事をともにしてはならないといわれている。

このように木は契約的合一を象徴している。

 

 

2010年2月23日

 

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