跪拝行為が、契約行為であるならば、異なる神を跪拝することは、契約の主権者を替えることを意味する。
十戒の第1戒から第3戒まで偶像礼拝の問題を扱っているのは、契約の中心部だからだ。
「あなたは、誰の契約の中にいるのか?」
イスラエルは、聖書の神の契約の中にいた。
しかし、他の民族は、異なる神の契約の中にいた。
彼らはそれぞれの神を拝んだ。
またそれぞれの神の契約規定を守った。
聖書の神を拝みながら、その契約規定である律法を守らないならば、それは、実質的に他の神を拝むことになる。
我々がAという学校や会社に入ったならば、その学校や会社の契約の中に入ったのである。
だから、その中の規定を守る必要がある。守らなければ、追い出される。
十戒の第2戒は、偶像を作ることの禁止である。あらゆる形を作ることを禁止された。
それは、異なる神の像だけではなく、聖書の神の像も作ることを禁止された。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(出エジプト記20・4)
あらゆる形を作ることが禁止されている。だからといって、彫刻や絵画は罪か、という問題ではない。
なぜならば、神は幕屋や神殿の建設の際に、幕や柱などに様々な像を描くことを命じておられるから。
問題は、礼拝と関係している。
礼拝対象として像を作ることを禁止している。
私は、映画であれ絵画であれ、神やイエスを描くことが禁じられていると思う。
なぜならば、我々が神やイエスを描く際に、それは不可避的に礼拝対象となるから。
我々にとって神やイエスは主権者である。であれば、礼拝と切って考えることはできない。
何故第3戒は像を作ることを禁止したのか。
それは、我々のイメージで神を規定することになるから。
自分の理想像を投影させるから。
神がご自身を啓示された方法は、聖書と自然においてだけである。
我々が勝手に神を描くと、必ず偶像を作る。
なぜならば、像を作るという行為において、神を自分のイメージに合わせて規定するから。制限するから。
「神様、あなたはこうでなければなりません!こうなりなさい!」と。
自分が主権者になる。
死後のセカンド・チャンスはあるか、の議論の中で、ある牧師がこう言った。
「そんな救われる人と滅びる人を選ぶ神様を認めるわけに行きません」と。
どんなに聖書にはっきりとそう書いてあるとしても。
これこそ偶像礼拝の本質である。
聖書に記されているとおりのそのままの姿を受け入れたくないのである。
自分がアレンジした神しか受け入れたくないのである。
リベラル信仰の本質はこのように「あなたが主権者ではなく、私が主権者であり、私は私の思い描く神を崇拝します」ということにある。
本当のクリスチャンは、聖書を読んだときに、どんなに自分にとって受け入れがたいことであっても、「分かりました。おっしゃるとおりにします。」というものだ。
マリアがそうだった。処女であるあなたは子を生むという御使いの言葉に「御心のとおりになりますように」と答えた。
聖書の啓示を前にして、「とんでもない。そんな神ならいらない」という言葉は、自ら偶像礼拝者であることの宣言であり、契約からの脱退宣言である。
だから聖書啓示を丸ごと受け入れない人間は、契約の外の人間である。
像を作る人間も同じだ。
彼は自分のイメージに合わせて神の属性を取り去ったり、付け加えたりする。
今の教会は、人間中心、ヒューマニズムに支配されているから、聖書のありのままの神ではなく、自分達のイメージが作り出した偽神を拝んでいる。
その一つの象徴が、クリスチャン書店などで売られているキリスト像である。