律法は消えてしまった???
1) 非常に超初心者的質問で恐縮ですが、紀元70年の預言成就でイエス様が来臨された、しるし、ないし歴史的証拠は何でしょうか?
マタイ24・2では、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」とイエスが言われ、それに対して弟子たちが「いつそのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世[原語では「時代」]の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と答えていますので、
イエスの来臨の証拠は、神殿の崩壊です。
また、イエスは23章において「それは義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。…これらの報いはみな、この時代の上に来ます。…見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」と述べておられますので、
イスラエルを神の民とする民族的経綸に基づく旧体制の崩壊をも意味します。
紀元70年以降のローマ軍による神殿破壊とユダヤ人のパレスチナからの追放により、パレスチナはもはや神の国ではなくなり、神殿はもはや神の住まいでもなくなりました。
全世界が神の国となり、全民族が神の民となり、クリスチャンの体が神殿となる新しい体制が到来しました。
2) TG先生がヘブル書8章6〜13節を引用されて、「最後の節をご覧下さい。古びた契約は「間もなく」消えうせると宣言されています。キャピタルTのセオノミストの間違いはこれを見落としていることです。しかし、このように言うと無律法主義だと批判されますが、無律法主義ではありません。なぜなら、新しい契約は外側ではなく、人のこころに律法が書き記されるということだと教えているからです。」とおっしゃっていますが、10節「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう」はまだ完全に成就しきっていないので、キャピタルTのセオノミスムを「間違い」とは言えないのではないでしょうか。
(T)
TGさんには次の質問を何度もしたのですが、まだ答えていただいていません。
「もし古い契約が消えて、律法も消えてしまうなら、なぜパウロは『私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。』と述べたのか?」
片や、「律法は確立する」と述べているのに、「律法は消えてしまう」なんていうこと言えるはずがありません。
そして、私は、TGさんには、さらに、「パウロは具体的に律法が新約時代においても規範として存続していることを示した」ということを指摘しました。
「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント9・8−10)
ここにおいて、パウロは「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」という律法を新しい時代の規範として適用し、それは、「私たちのためにこう書いてある」と宣言しているのです。
これで、
ど・う・し・て・律・法・は・消・え・て・し・ま・っ・た・と・い・え・る・の・で・し・ょ・う・か?
ヘブル8章は文脈から判断すれば、律法そのものではなく、「祭司・犠牲制度」が古くなって消えてしまった、と述べているのです。
ヘブル4章後半から著者はずっと祭司制度、犠牲制度について述べています。そして、それは「欠けがある」(8・8)ものだったので、イエス・キリストという完全な人による成就によって全うされ、完全な体制になった、と宣言している。
古い契約は「影」であり、新しい契約は「実物」である(10・1)。実物が現れた以上、影はもはや不要である。
だから、消えてしまった、と述べたのです。
新約時代律法消滅論者(アンチセオノミスト)のミスは、こういったこちらが指摘した本質的な疑問に答えずに、相変わらず同じ主張を繰り返すという頑迷さにあります。だから、議論しても無駄なんです。彼らを同じ所にとどまらせているのは、自分の非を認めたくないために相手の主張を無視するという幼児性なのです。
セオノミーは、「新約時代において消滅したものは、祭司制度、犠牲制度、などイエス・キリストの『影』として神が仮設された民族特化的制度であって、その本質は消滅していない」と主張します。
(U)
「じゃあ、心に書き記された律法とは何か?」と質問されるかもしれませんが、あれは「クリスチャンの体が神殿となった」ということを示しているのです。
旧約時代において、律法の基本原則である十戒は契約の箱の中に置かれていました。
しかし、神殿が崩壊して、神が「クリスチャンの体こそ神殿である」とパウロを通じて宣言されてから、我々の体の中に契約の箱があり、その中に律法があるのです。
だから、昔の民のように、神を礼拝する時にエルサレムの神殿に上る必要もないし、契約の箱を探して神殿に安置する必要もない。
昔、神殿に聖霊が住まい、御名が住んでおられたように、我々の体には聖霊が住まい、御名が住んでおられる。
律法は心に書き付けられている。
だが、それじゃあ、書き記された、書物としての律法は不要になったかというと、そうではないとイエスご自身が主張している。
「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10・35)
ここで「聖書」とは、旧約聖書のことである。
また、パウロも次のように述べている。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)
聖書は「すべて…有益」なのです。もちろん、この聖書とは旧約聖書です。パウロの時代にまだ新約聖書は成立していないですから。
どうして、有益なものが「消えてしまった」といえるでしょうか。
もしTGさんの主張をまに受けるならば、律法はもはや消滅し、それは心に書き記されたのだから、書物としての律法は権威としてもはや存在しない、だから我々は、その部分をはさみで切り取ってもよい、ということになるのです。
これでは、リベラル派とまったく同じように、聖書の十全的権威の否定になり、放置すれば、将来教会にとって大きな脅威となります。
3)フルプレテリストの立場では、第一コリント13章10節「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」よって、既に、預言の賜物も、異言も、知識も絶えてしまったということになるのでしょうか。
すでに申しましたように、完全なものとは、「顔と顔を合わせて見る時」それは我々が「死後キリストと会う時」のことを意味しています。
今我々は、神を信仰を通して見ており、直接見ることはできません。
しかし、天においては神を直接見ることができるわけですから、そこにおいて預言も、異言も、知識も必要ありません。
フルプレテリズムがこの個所をどのように解釈しているかによりますが、もし「完全なもの」を、「神殿崩壊後の新天新地」と解釈していれば、おっしゃるとおり、彼らは「預言の賜物も、異言も、知識も絶えてしまった」と考えざるを得ないでしょう。
2005年3月8日
ツイート
ホーム