我々の祈りには、驚くべき力がある。それは、大国をも動かす力である。
それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」@
また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。A
ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。B
そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」 C
イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。D
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。 E
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」F
(マタイ21・12−22)
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イスラエルは堕落した。
みな、金儲けにしか頭が回らなくなった。
宗教も金儲けの手段にした。
ついには、宮の中に入って、イスラエルの神をも利用しようとした。
「御名をみだりに唱えてはならない。」の戒めを破った。神の御名は、ただ栄光を表すだけのために用いなければならない。
教会成長学を通じて、教会形成がビジネスのようなものになった。信徒がどれだけ集まるか。献金額がどれだけ集まるか、そういうことを「成長」のバロメーターにするようになった。
A
福音書において、「盲人や足なえ」は、「自分を信じない人」の象徴的存在である。
「金持ち」は「自分を信じる人」の象徴的存在。
金を持つことによって、人間は神から離れる。よほど人間ができた人でない限り、金が自分の信頼の杖となる。
そうすると、傲慢になる。
「神などに頼るなんて弱い」とか言い出す。
神に頼っているにもかかわらず。
地球はバンアレン帯という放射線帯によって有害な宇宙線から守られている。
だから、米国のアポロ11号が月に行ったことを否定する意見がある。バンアレン帯を出て、有害な宇宙船にさらされて生きて帰ってこれるはずがないと。
たしかにそうかもしれない。
生命環境は、奇跡によって成立している。だれでも神に頼っている。神の御手がいつも働いて我々を守っているから我々は生きていられる。
宮の中でイエスは、商売人を追い出し、身障者を癒された。
これは、神の宮、聖書の教えが、「心の貧しい人」つまり「自分に依存しないへりくだった人」のために存在するということを示している。
B 「子ども」も「自分に頼らない人」の象徴である。
子どもは、イエスを賛美した。しかし、「祭司長、律法学者たち」はそれを見て怒った。
奇妙な光景である。祭司長、律法学者たちは、律法の中において、直接に神に仕えるために特別に選ばれたレビ族である。レビ族の人々が、イエスを毛嫌いしている。
つまり、すべてが逆転した有様を示しているのだ。
社会が堕落して、まともなものが通用しない世界になったことを示している。
社会が堕落して裁きに値する状況になると、宗教家が人を迷わせ、教師が真理ではなく偽りを教え、医者が人を癒すのではなくむしろ健康を害し、親が子を捨て、子が親を捨てる。
そして、本来の仕事をしている正しい人々を妬み、敵意を燃やす。
C 「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」
堕落した世界では、神を賛美するのは「幼子と乳飲み子たち」である。本来賛美のために召された祭司長、律法学者たちは、賛美を毛嫌いする。
完全にイスラエルが悪魔の国になったことを意味する。
DとE
いちじくの木の役割は、実を結ぶことである。
しかし、イエスが空腹であるにもかかわらず、実がなかった。
実を結ばない木は役に立たないので、呪いが宣告された。
すると、たちどころに木は枯れた。イスラエルは、神のために実を結ぶために神が植えられた木であった。しかし、実を結ばないので、たちどころに裁かれる、ということをこの箇所は暗示している。
E
「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」
もし信仰があり、疑うことがなければ、我々もイエスと同じように裁きを下すことができる。
堕落し、裁きの状況にまで腐っているならば、たとえ大きな山であっても動かすことができる。
だから、我々の祈りが国を動かすことも可能なのだ。
腐りきってしまった政治家。役人。企業。国。宗教。学校。
全部、裁きのために動かすことができる。
聖書において、陸はイスラエルの象徴。海は異邦人の象徴。陸は救いの場所。海は滅びの場所。
山が海に動いて入るという表現は、救いの中にあったはずのものが滅びの世界に入ることを示している。
だから、契約の民イスラエルが裁きの中に入り、異邦人と同じように救いのない状況の中に入る。
イスラエルの土地、つまり、エデンの園、救いの世界の住民は、神をあがめ、神のために実を結ばねばならない。そうしなければ、たちまち枯れてしまう。
陸の上に堅固に存在する山ですら、海に入るのだ。救いの世界にいるからといって安心してはならない。契約に違反して悔い改めず、実を結んでいなければ、ただちに海の中に放り込まれる。
我々クリスチャンは、イエスから、堕落した者たち、国であれ、権力者であれ、誰であっても裁きの中に叩き込む権威がある。
心に信じて疑わなければ、契約に違反して悔い改めない悪の世界に裁きを下すことができる。
無実のウイグル人に濡れ衣を着せて、よってたかって棍棒で殴り殺すような中国人、そして、その犯罪を裁こうとせず、むしろ、彼らの抹殺を目指している中国共産党政府に裁きが下って崩壊するように祈るならば、それは必ず聞かれる。
我々の祈りは国をも動かす。