御言葉を疑わせるクリスチャンとは交渉を絶て
(1)
人生の試練とは、登山のようなものだ。
登山は苦労が伴う。重力に逆らうからだ。
試練を経験しない人は、登山をしていない人だ。
だから、上から水を流せない。
まだ平地にいるからだ。
山の上に上ってはじめて、下に水を流せる。
指導者になる人は、必ず試練を経る。
試練を経ない人は指導者になれない。
知恵がないからだ。
試練を通じて知恵を得られる。
だから、クリスチャンになると試練がやってくるのは、影響力を持たせるためだと思ってよい。
神はあなたを山の頂上に導いておられるのだ。
将来、上から祝福の水を流すために。
(2)
最初、聖書を読んでもピンとこないのは、知恵が欠けているからだ。
聖書の世界と、ノンクリスチャンだった時代の世界とはまったく違う。
働いている法則そのものが違う。
神が契約の民を扱われる方法は、新米のクリスチャンには判らない。
信仰は年数がものをいうことが多い。
信仰の世界に入ってから、神やサタンの働き方、誘惑が襲う方法、それに対処する方法、などいろんなことがわかってくる。
信仰の先輩に対しては、一目も二目も置くべきだ。
先輩や牧師などを軽んじることは、自分を道に迷わせることになる。
ボクシングジムに入って、先輩やらコーチの言うことを聞かないと上達しないように、信仰の先輩の助言は重要だ。
ただし、何年たっても何も学んでいない人もいるので注意が必要だ。
それは、神に必死に求めてアドバイザーが与えられるように祈る必要があるだろう。
(3)
注意すべきクリスチャン、その実、羊のなりをしているが狼であるようなクリスチャンの特徴は、第一に「御言葉の軽視」である。
「聖書の言葉なんて人間が考えたものだ」とか「それは、人間の改ざんがあったので信頼できない」とか「科学的研究によって聖書を書き換える必要がある」とか「進化論によれば創世記は間違いだ」とか、そういう助言をするようなクリスチャンはクリスチャンではなく、サタンの弟子である。
聖書信仰にたたないクリスチャンとは、一切交渉を断つべきである。
サタンがエデンの園においてエバを誘惑した言葉は、「神は本当にそのようなことを言われたのですか?」だ。
御言葉を疑わせるいかなる言葉もサタンから来ている。
一言「下がれ、サタン。」といって、一切交渉しないことだ。
2010年4月21日
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