予定しない神は神ではない2
影響されるものは基準になれない。
たとえば、オリンピックで採用されているメートル尺は影響されてもよいだろうか。
もし、ある尺が熱か何かの原因で伸びたら、他のものと交換するだろう。
ストップウォッチがもし狂ったら、それを新品の正確なものと交換するだろう。
基準はあくまで「不動」でなければならない。
神が影響をされる方であるとすれば、神は基準にはなれないのだ。
誰かの意見に説得されて、ご自分の意見を変えるならば、神は人間を裁くことができない。
言っていることが時々に変わるならば、そんなのは裁き主にはなれない。
聖書は、「主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3・6)と神を不動者と断言している。
「・・・父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1・17)
神は不動なのです!
だから、基準になれる。
だから、裁くことができる。
人間は、この不動の基準があり、その不動者によって任命されているから、裁くことができるのです。
父親として家庭を裁き、首相として国を裁き、牧師として教会を裁く。
「人間がどうして裁くことができようか?」と尋ねる人がいますが、「人間は不動の基準ではないから裁くことはできない。しかし、不動の基準である神が人間に裁きを委ねたので、裁くことができる」と答えます。
もし厳密に言えば、人間は誰でも叩けば埃が出るのですから、誰も裁くことなどできない。そうなれば、世界はめちゃくちゃになります。
人間は、不動のものでも、基準でもないが、しかし、不動の基準である神に任命され、業務を委託されたので、裁くことができるのです。
神の不動性は、宇宙の基礎です。
そして、不動性なるがゆえに、神は何かによって影響されることはない。それゆえ、神はあらゆることについて、絶えず能動的にかかわり、神が受動的に対応するということはない。
つまり、影響を受けて狼狽したり、ぐらついたりすることはない。
素粒子の一つ一つの運動についてすら、あらかじめ予定されている。
これ以外の立場をとれば、基準となる神は消えて、法の有効性を主張できなくなり、この世界は無政府状態が正当だ、ということになる。
つまり、神の予定の教理は、「法と秩序の基礎」なのです。
2004年6月20日
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