なぜ聖書なのか?4
<R様>
先生、一つ意見があります。本当に神は世界を六日で作ったのでしょうか?
もちろん、聖書にかいてあることが絶対的に正しいです。
では、何を言いたいかというと聖書の創造の箇所の捕らえ方です。本当にそれは24時間×6=144時間でしょうか?
もういちど確かめてみませんか?
そこで一つ伝えておきたいことがあります。先生は「長い年月をかけて地球ができた」科学説は「進化論的」で聖書の権威を無視していると思うかもしれませんがまったくの逆です。
ビッグバン宇宙論は確かに再現性がないですが逆に聖書を支持しているのです。
なぜそういえるのか?ビッグバン宇宙論は宇宙が有限で一点から始まったと言っています。したがってこの宇宙は無限ではなく被造物であることを明らかにしているのです。また、先生が前のメールで教えてくれたように自然界を見ることによりこの世界が偶然では絶対にできないほど精密にできていることがわかります。この
1、自然から見た生物の精密製
2、宇宙に限りがある
ことにより聖書を支持しています。
どうか今のビッグバン宇宙論の聖書を支持していることをふまえて創世記の「日」という意味がヘブル語で24時間という意味しかないのかを再考してみてください。私がみつけてサイトには「日」とは
ヘブル語で三つの意味があると語っています。ここで書くよりは直接サイトをみたほうが早いので下にそのアドレスを載せます。時間があったときでいいので創造論についてもういちど考えてみてください。(上に書いたことをふまえて)
http://www.konkyo.org/Nihongo/TheAgeOfTheEarthInLightOfTheBible
<tomi>
(1)
残念ながら、日を長期間ととらえることによって、聖書の無誤無謬性が崩壊しますので、私は絶対に6日創造説以外はとりません。
いくら説得されても絶対にこの立場を譲りません。
すでに述べました出エジプト記の箇所における「日」は、同一文脈の、しかも同一の節に出てきます。
同一文脈の同一節に出てくる同じ言葉を異なる意味に解釈することはとうていできません。それは解釈exegesisではなく、「読み込みingesis」になります。
神の言葉に対してこのような読み込みをすることは偽預言に等しい罪になり、それは、永遠の命を失う大罪です。
神の主権を尊重するならば、聖書を最高権威として読む以外に方法はありません。
神の救いの契約にとどまりながら、神の言葉を恣意的に解釈することはできません。契約を捨てることに等しい罪ですから、救いを失います。
Gary North の The Dominion Covenant(ICE)という本があります。ここに進化論の宇宙観がどのようにして成立したか詳細に論じられています。
ビッグバン説にしても、今の宇宙論は、カントの「人間理性による世界の再構築」の前提に立っています。
http://www.millnm.net/qanda2/34wSfyAfLFdQ69820.htm
http://www.millnm.net/qanda2/127jg3D7aCneg13768.htm
http://www.millnm.net/qanda2/68Yg13hF83iBM51193.htm
http://www.millnm.net/qanda2/42a7vW5rqRZqY17873.htm
そして、それは、古代からの非キリスト教的歴史観と同じ「循環的歴史観(無始無終・永遠流転)」に基づいており、現代の科学はこの思想的背景を土台として作られています。
まったくの中立の状態から出発していません。
聖書は、循環的ではなく、直線的歴史観を教えています。
進化論を部分的にでも取り入れることによって、聖書の歴史観そのものが破壊されます。
大きな枠組みが崩されます。日を24時間の1日ととらえるか否かは、単に創造論にとどまらず、歴史観全体にかかわる重大な問題です。
私たちが非6日創造説を唱えることは、聖書から一部を取り去るという偽預言の罪(旧約ではこれだけで死罪)であるばかりではなく、聖書の直線的歴史観を破壊する「聖書的キリスト教破壊」「神の国破壊」の最大罪になるのです。
今の科学は、無神論を前提としており、聖書的ではありません。聖書的ではない前提で編み出されたものは要注意です。私たちは何をもってそれらの情報を取捨選択すべきでしょうか。
聖書だけです。
聖書だけが最高権威であり、聖書に反する言説は排除しなければなりません。
(2)
もう一つ、人々がなぜ6日創造説を拒否するかというと、この世界の時間枠を長く設定することに慣れているからです。何億年というタイムスケールで考えることになれています。
しかし、これは18世紀後半に登場したごく最近の学説であり、一つの証明されないパラダイムでしかありません。
誰も実際にこの宇宙が140億年かかって成立したかどうか確認できません。ただ、放射性同位元素の年代測定法によって類推するだけです。しかし、それはあくまでも類推であって証明など不可能です。
この測定法に原理的に問題があることがわかっており、それによって測定された岩石の年代には驚くべき誤差があります。
http://www.millnm.net/qanda/radioa.htm
(3)
進化論は原理的に致命的な問題をかかえています。
進化論は「突然変異によるDNAの変異により生存に寄与する形質が偶然にできて、それが、自然淘汰によって子孫を残す可能性が高まり、形質が安定する。そして、その繰り返しによって生物が進化した」と説明します。
だから、進化論にとって億年単位の時間が必要であり、宇宙論の億年単位のタイムスケールもその前提で成立しています。
しかし、進化は不可能です。なぜでしょうか。生物の形質には、「最初から完成されていなければ生存に寄与しない」ものが無数に存在するからです。
たとえば、光合成のシステムは最初から完成された形で出現しなければ生存に寄与しません。
生物の生存に寄与する機能(光の作用により二酸化炭素を糖やデンプン(有機物)に変える)を獲得するまでの無数の化学変化のステップは「自然淘汰の作用」によらずに成立しなければなりません。
このような「完成形でない限り無能な」システムが生物界には無数に存在します。
進化論は、それらが、偶然に成立したということを「自然淘汰」以外で説明しなければならない。
しかし、無理です。
なぜでしょうか。確率的に天文学的な数字になるからです。
光合成の成立において、その中で利用される酵素を構成するたんぱく質一つが偶然に出来るために必要な年数は、天文学的数字になります。
そこで、チャールズ・ユージン・ガイ博士が、原子がランダムに集まって、最少の原子(炭素、水素、窒素、酸素)からなるたんぱく質分子1個を作る確率を計算した。注意していただきたいのは、博士は、92元素全部の成立や生命の誕生の確率についてではなく、「単一のたんぱく質分子」の成立についてだけ計算したのである。
その結果、偶然の作用によって、たんぱく質分子1個が生まれるのに必要な原子の集合は、その中心から出発した光が10の82乗年かかってやっと表面にたどりつくほど巨大な球体になったという。しかし、現在の推定では、宇宙の大きさは、半径10の9乗光年である。
地球の大きさの天体において、偶然にたんぱく質分子1個ができることを期待すると、10の243乗年かかるという。地球の年齢は、10の9乗年といわれているので、生物の進化の動因を偶然に求めることがいかに愚かかがわかる(Lecomte du Nouy, Human Destiny (New York: Longmans, Green, 1947), p. 34; cited ibid., p. 375.)。
たんぱく質1個が偶然に成立するのにこれだけの時間が必要であるならば、生物進化全体に必要な時間はまさに「永遠」でしょう。
偶然だけで自然界を説明する今の科学は、一種のトンデモ宗教なのです。
こんな宗教が作り出した学説に依存するよりは、「創造主による瞬間創造」のほうが理屈に合います。
今の宇宙論が時間を長く設定しているのは、進化をもっともらしく見せるためであり、進化が原理的に不可能であるならば、時間を長く設定する意味はない。
だから、クリスチャンは、「日」を長期に設定する必要はないのです。
(4)
無神論的前提で出発するということは、宇宙が閉じられた系であると主張するのと同じことです。
神など超自然的な力が外部から働きかけることはないというのが今の科学理論の土台なのです。
とすると、エントロピーの法則がこの宇宙には適用されるということになります。
閉じられた系の中で、秩序は一定か、もしくは、不可逆的に崩壊に向かうという。
温度や秩序の偏りがある今の宇宙は、不可逆的に均質化しつつあり、最後には完全な平衡状態になると。
暖めた風呂の水を放置していると、室温に近づき、両者は同じ温度になるのと同じように、宇宙のどこにおいても同じ温度、同じ秩序の状態(カオス)になると。
進化論は、この逆のことを教えているのですから、原理的に間違っています。
(5)
聖書は、神をこの世界の存在のあり方を決定された方として描いています。
これは、WindowsなどのOSにたとえることができます。
OSが違うとソフトが使えません。WindowsのOSでマックのソフトは動きません。(今はどうか知りませんが昔はそうでした。)
コンピュータのハードが同じでも、その中にあるシステムが違うと、まったく異なるものになります。
神はこの世界を時間と空間の世界として創造されました。
だから、神は時間と空間に縛られない。超越している。
だから、神が奇蹟を行われるのは、「超越者らしい」ことをしているということになります。
我々人間の日常生活、たとえば、買い物に行くとか、会社で仕事をするという3次元の世界の活動は、コンピュータのOSに支配されません。
人間は、OSから超越しており、都合が悪ければOSを書き直すことも可能です。
しかし、コンピュータの中の様々なソフトやシステムは、OSに支配されます。
OSに合わないプログラムを組むと、作動しません。
我々が何かを作る場合には、時間がかかるし、空間も必要ですが、神は超越しておられるので、それらの制限を受けません。
イエスは、水を一瞬でぶどう酒に変える奇蹟を行われました。これこそイエスが創造主である証拠です。
進化論的創造論は、すべて神を超越者・創造者として考えることに失敗したために生まれました。
非6日創造説は、「いくらなんでも神だって創造に時間がかかるだろう」という前提にたっています。
だから、非6日創造説は、非聖書的なのです。
2009年3月12日
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