再建主義批判のサイト(米)への応答3
<RNCI>
再建主義は、「契約主義」を採る。これは、神と人間、神と民族、神と家族の間には聖書の「契約」があるとする教理である。また、「契約は、あらゆることを理解するための結合的・総合的な教理を生み出す」と考える。具体的に言えば、契約の「構造」は、聖書に基づく社会制度の青写真を提供する。再建主義者は、「神は、これらの契約の法をどれだけ守ったかによって社会全体を『裁』き、その裁きのしるしを与える」と信じている。
<tomi>
この記述は、正しい。
しかし、こういった教えは、再建主義に独特なものではなく、契約神学の立場を取る者ならあたりまえとするものである。
このHPの著者はディスペンセーショナリストだから、こういった教理に反感を抱くのだろう。
<RNCI>
再建運動の重要性は、その数にあるのではなく、その思想の力と、驚くほど速やかに伝播する影響力である。キリスト教右派の多くは、自分たちが再建主義の考えを採用していることに気づいていない。神学として議論を呼ぶものであるため、自覚的に影響を受けている福音主義者の間ですら、自分を再建主義者と呼ばれることを嫌う人は多い。
しかし、たとえ公表することを避ける人が多くいたとしても、再建主義の思想それ自体が持つ潜在的なパワーを無視することはできない。一般に、再建主義は、民主主義を廃して、その代わりに、神裁政治を敷くことを目指している。この神裁政治では、エリートが解釈する「聖書律法」を強制することによって、統治が実現するのである。
<tomi>
我々は、「この神裁政治では、エリートが解釈する「聖書律法」を強制することによって、統治が実現する」とは考えない。
聖書律法を適用するのは、あくまでも、「国民が、聖書律法を守ることを神と約束した国」においてだけである。
なぜか?
神は、レイピストではないからだ。神は、人が自発的に救いを求めることを望んでおられ、さらに、自分の生活を自発的に神の法に従わせるようになってほしいと願っているからだ。
神は、愛の御手を我々に差し伸べておられる。その証拠は、十字架である。ご自身の御子を我々のために与えるほどに我々を愛してくださった。
それなのに、どうして、我々を聖書律法で無理やり縛り付けることを望むだろうか?
誤解しないでほしい。聖書律法は「解放」なのである。聖書律法は我々に秩序と自由を与えてくれるのである。殺人犯を処刑せよ、というと、「我々に恐怖政治を押し付けるつもりか?」という反応が返ってくるかもしれない。
そうではない。殺人犯を処刑することを命じる法律によって、遵法的な市民が安全に自由に暮らすことができるようになるのである。サルを保護すると、サルが増えるように、殺人犯を保護すると、殺人犯が増えるのである。
神の法は、この世界を創造された全能者の知恵である。だから、聖書律法を適用することによって、かえって我々は自由に、幸せになるのだ。
しかし、今日多くの人々は、自由の概念をはきちがえているため、聖書律法を窮屈に感じているのである。全部、サタンのだましなのだ。
1970年代から、欧米でポルノが解禁になった。ポルノによって人間は健全になり、自由になるだろうか?ポルノによって幸せになるだろうか?
ホモセクシュアルは解放か?ホモセクシュアルは純粋で、心の無垢な人が多い?ならば、自分の子供をホモにしたいか? ホモの映画を文部省推薦映画にしてもらって、学校で上映することを望むだろうか?
姦淫は、自由ではなく、束縛である。それは、サタンのわなである。
サタンの自由は、我々をがんじがらめに縛りつけるが、聖書律法は、我々に本当の自由と幸いを与えてくれるのである。
2006年2月21日
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