日本のクリスチャンは外国人参政権に反対すべき


小沢氏が韓国で、過去の植民地支配を謝罪したという。

そして、永住者外国人の参政権を認めよと。

とんでもない。

日本の政治は、日本人がやるべきだ。

参政権を得たいなら、国籍を取れ。

聖書において、メンバーシップの考えは非常に重要だ。

「これこれのものは、集会から断ち切られる」という戒めが多い。

たとえば、


すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。(民数記19・13)

死体に触れてはならなかったのは、神の民は、死とは無縁の存在だからだ。

神は命であり、神の民は、命の民である。

だから、死は、神の民とは無縁であり、それは穢れである。

この律法は、イエス・キリストにおいて成就した。

イエス・キリストが死んで、復活されたことにより、死に勝利された。

イエスは「よみがえりであり、いのち」である。

だから、イエスにつく我々もよみがえりであり、いのちである。

我々は死とは無縁だ。

だから、クリスチャンにとって、「死に属するもの」、たとえば、絶望とか否定的な考え、虚無主義、死を愛する音楽、デスメタル、自殺、殺人こういうものは、穢れである。

我々はこういうことに関わってはならない。

死体そのものにはもはや意味はない。死体に触れても汚れるわけではない。

衛生学的な意味以外において、つまり、宗教的な意味において、死体に触れることには意味はまったくない。

しかし、命の民であるクリスチャンにとって、死に属するようなものを信じることは、ふさわしくない。それは、罪だ。

だから、クリスチャンは前向きに、常に可能性を信じて、命を愛する生活をすべきだ。だから、医療のように人を健康にするための働きは、聖書的な仕事だ。人を励ますカウンセリングもそう。あと、健康になる食べ物を育てる農家、それを販売する商店、こういうものも聖書的だ。

さて、神の国の人々は、旧約時代において、死体に触れてはならなかった。

死は、神の国以外の人々の特徴だ。

国家は、それぞれの地域、時代において、人々や自然を管理するために作られた制度であるから、国家が神の御心にかなう制度であり続けるためには、一定の資格が必要だ。

とくに、参政権のある大人には、国を正しく維持する責任がある。

もしそのような責任を自覚していない人々が政治に参加することになれば、当然のことながらその国は崩壊しても不思議ではない。

参政権をその国に対して責任を持つ覚悟のある人々に制限するのは当然のことだ。

その国に対して責任を持たない外国人、何かあれば、自国に戻る可能性のある人々、自国の利益のために居住している国を利用しようとしている人々、その国家を崩壊させて、自国に併合しようとしている人々、ある国際組織に属していて、その国を崩壊させて、その組織の傀儡の政権を作ろうとしている人々に参政権を与えるならば、自殺行為である。

民主党にはこのような危うさがある。

旧社会党の田辺委員長は、中国に南京大虐殺記念館を作る話を持ちかけ、総評から出た金を中国に持ち込んで建設したという。

このような人が今民主党の地方の顧問をしている。

どうだろうか。

小沢氏が日本の解体をもくろんでいると受け取られても不思議ではない。

日本という国を聖書的に維持することは、日本の参政権を有する我々の義務だ。

だから、外国人参政権に反対するのは当然である。

 

 

2009年12月13日

 

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