<Q>
十分の一献金は、聖書に明確に記されていますか。
<tomi>
はい。
こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。(レビ27・30)
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。(マラキ3・8)
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3・10)
このように聖書は十分の一は神の所有物であり、人間のものではないと述べています。
十分の一を拒否する人は、聖書のどこからそう結論できるのでしょうか?
不思議ですね。
2.「先生と呼ばれてはならない」と聖書に記されているので、牧師は先生と呼ばれてはならないのではないですか。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23・8)
もし、いかなる場合であっても「先生」と呼ばれることが間違いであるならば、その理屈は、「父」や「師」にも適用されなければなりません。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。 (マタイ23・9−10)
自分の父親に向かって「お父さん」と呼ぶことも、自分の習い事の師匠に向かって「師」と呼ぶことも禁止されるということになりますね。
人を「先生」「父」「師」と呼ぶことそのものがここで禁止されているとしたら、我々は、自分の学校の先生を何と呼ぶべきでしょうか。父親をなんと呼ぶべきでしょうか。「師匠」を何と呼ぶべきでしょうか。
この文脈はそんな形式的なことを述べているのではありません。
彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23・5−8)
ここの箇所で言われているのは、「偽善」です。
イエスが批判されているのは、偽善によって自分を高く見せようとする試みです。
教えてもらう人が、教える人を尊敬して先生と呼ぶことまでもが批判されていると考えることはナンセンスです。
私が、先生と呼ぶことを拒否する人は、このサイトを見るなと言ったのは、「自分の知らない知識を教えてくれる人を尊敬する気持ちがないならば、その人を先生と呼ぶ必要はない。しかし、自分がその人の知識や情報によって利益を得ている一方で、その人に対して尊敬の気持ちを持てないならば、その人は私のサイトから情報を得るな」ということです。
このHPで何度も警告しているにもかかわらず、批判目的でサイトを見ている人がいます。こういう人に対して私は情報を一切提供する気持ちはありませんということ。
だから、先生と呼ばれるかどうかは関係ない。tomiさんでもなんでもいいんです。
問題は、情報を受ける人の態度、姿勢です。
「あなたを先生と呼ぶ気持ちはありません」というような傲慢な人間にまで、情報を提供する気持ちは私にはさらさらない。
これ当たり前のことでしょう?違いますか?
我々の社会は、ギブ・アンド・テイクで成立する。
テイク・アンド・テイクの人間はいらない。無駄。付き合いたくもない。