オリーブ!ニュース 2006/02/03(02071号)が『小泉首相のトンチンカンな社会認識』(巖谷鷲郎氏)という題の論文で、格差の拡大に関するポリー・トインビーという人の議論を紹介している。
『ハードワーク 低賃金で働くということ』(東洋経済新報社)の著者ポリー・トインビーは、所得格差の拡大ないし二極化について、砂漠を行く隊商の列に喩えながらこんなふうにいっている。
高所得者層が先頭グループで、後ろの方に低所得者層がいる。
格差が拡大するにつれ隊商の列は長く伸びていく。格差がさらに拡大するとさらに隊列が伸び、やがては一本の細い線のような列となる。
このとき先頭集団には、たとえば400億ドルもの資産をもつビル・ゲイツのような面々が高所得者集団を作っている。彼らは元気いっぱいでテンポ良く進む。が、列の後方には、たとえば時給800円前後の収入を得るために身を粉にして働く人々が連なり、彼らは疲れ果て歩調が遅い。
収入の格差は決して縮まらず、列はさらに伸びる。そして、ついに、伸びきった列がちぎれ始めるのだ。こうなると、もう後方集団が隊列の前の方に追いつくことは不可能となる。
この議論は、以下の理由でおかしいと思う。
(1)
後方集団がどうして前方集団に追いつかなければならないのだろうか?
我々がどうしてビル・ゲイツに追いつかなければならないのだろうか?
少なくとも私はそんな10兆円の財産を持つ人間に追いつこうなんて思わない。
「衣食住が揃っていれば満足すべきだ」との聖書の教えにしたがっている人は、そんな雲の上の人々を見て、うらやんだり、追いつこうとしたりなどしない。
(2)
本当に格差が大きくなると、一本の線のようになるだろうか?
生産者は、消費者の購買力に見合わないものは作らない。儲からないから。そうであるならば、普通の場合、値段と商品の質の設定を一番厚い層に合わせ、その結果、(贅沢品ではない)こういった普通の商品は、日本人の大多数の人々が買えるということになり、中間層にいる人々は、互いの間でそれほど格差を実感しなくてもよくなるだろう。
国民の平均所得が上であれ、下であれ、このような市場の原理が働く以上、大多数の人々はそれ相応の商品を手に入れられるのであり、一つの国民の中で格差というものはそれほど広がらないはずである。
格差が気になるのは、他の国や社会と比較した場合である。
たとえば、中国人が日本人やアメリカ人の生活を見たら、自分たちよりもはるかに豊かだと感じられるだろうが、中国人同士の場合、そのような開きを実感しないだろう。
(3)
一国の中における格差の開きを悪とすると、基準があくまでも相対的なものであるわけだから、いつまでたっても不公平感はなくならない。
所得の分布は、他の集団と同様に、正規分布を示すわけで、そこには必ず少数の富裕グループと少数の貧困グループが生まれる。これは、どんな人々をサンプルとして抽出し、母集団としても、このような分布を示すのであり、格差をなくすることなど原理的に不可能である。
格差悪玉論の基本には、「集団はできるだけ均質でなければならない」という証明されていないテーゼがあるからである。
かつて、世界の国々は南アフリカの人種差別を非難していたが、実際に南アフリカの人々に会って話を聞くと「世界で一番裕福な生活をしている黒人は南アフリカ人である」という。
格差だけに注目すると、白人と黒人の差が目立ち、ひどい環境に暮らしているように見えたが、実際はそうでなく、白人との比較でそのように見えたということらしい。
これは、アメリカの黒人についても言えるだろう。国民全体の生活レベルが高いため、アメリカの中で低所得者層に属する彼らであっても、途上国と比べれば、かなり豊かな生活ができているのである。
(4)
格差を小さくすることを目標にすると、どうしても累進課税のような不公平な税制を採用せざるをえなくなる。
そうしたらまたもや共産主義社会への逆戻りである。
社会の中において、活発で前進しつつある人々、仕事ができる人々、お金儲けがうまい人々に対して、課税を強化することは、せっかく火がつきはじめたストーブに水をぶっかけて冷ましているようなものである。
燃えているストーブに燃料を補給することによってはじめて部屋全体が温かくなるのである。
ホリエモンのやったことは犯罪であったから告発されたとしても当然だが、しかし、もし検察が、「一人だけ儲かっている。いっちょ足を引っ張ってやろうか。」という気持ちで行ったとしたならば、とんでもないことをやらかしたということだ。
日本経済を活性化したいならば、燃えているところに燃料を投入すべきであって、水をかけるべきではない。
日本の一部の会社が儲かることは、波及効果によって他の部分をも活性化するのである。
こういった場合に、「格差是正、均質化賛成」の議論は、社会の発展を遅らせることになるから注意すべきである。