すべては我々の信仰にかかっている


(1)
イエスは、クリスチャンにできないことはない、と言われた。


イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」(マタイ21・21)

聖書を通じて一貫している主張は、「人数は関係ない」ということだ。

我々に何人仲間がいようが、まったく関係ない。

全人類が我々に敵対しても関係ない。

ヨシュアは道具もちと2人だけでペリシテ人の軍隊と民を大恐慌に陥れ、イスラエルに勝利をもたらした。

ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。
片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」
すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」
ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。
もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。
もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」
こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」
ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。
ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。
こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。
ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。
サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。
サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである。
サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。
サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。
それまでペリシテ人につき、彼らといっしょに陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。
また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。
こうしてその日、主はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。(1サムエル14・4−23)

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

契約の民にとって、人数はまったく関係ないのだ。

無割礼の民(契約の外にいる民)は、契約の民に勝てない。

契約の民に信仰があり、疑わなければ、一人か二人で、サタンの陣営を大恐慌に陥れることができる。

なぜならば、契約の主は天地の王キリストだからだ。

我々は、天地の王と結びついている。

だから、我々が何人いようが関係がない。

我々が主の御心といったいになっていれば、我々の祈りによって世界を支配し、それを地獄にしようとする人々が何人いようと関係ない。

彼らがどのような資産を持っていようが関係ない。

だから、我々は「常識的な思考方法」というものを捨てなければならない。

人数を気にするのは、偶像礼拝である。

人間に信頼することだから。

(2)
最高裁が、政治に顔を向けて市民に不利な判決を下すことが目立つようになった。

我々市民一人一人の力は弱い。

だから、最高裁が政府とグルになって我々を圧迫するようになれば、我々は泣き寝入りをするしかない。

しかし、そこで我々は絶望する必要はない。

どんな権力者であっても、キリストには勝てない。

我々がキリストに訴えて、正しさを求めるならば、神は我々の願いを聞き入れて、権力者に裁きを下してくださるだろう。

「いや、権力には勝てませんよ」というクリスチャンは、偶像礼拝者である。

キリストより人間のほうが強いと考えているわけだから。

一度や二度祈って聞かれないからあきらめるようではだめだ。

あくまでも祈り続けなければならない。

執拗に執拗に祈れ。

そうすれば、あるとき、奇跡が起こるだろう。

大きな岩盤も、コツコツ力を加えると、あるとき割れる。

あきらめないで、正義が地上を支配するように祈り、最善を尽くして行動せよ。

そうすれば、必ず邪悪な者たちの支配は崩れ、御心は、天で行われるように、地でも行われるようになるだろう。

すべては我々の信仰にかかっているのだ。

 

 

2010年5月20日

 

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