人につくな、教えにつけ
猫は家につき、犬は人につく、というが、クリスチャンは、猫タイプであるべきだと思う。
日本では、聖書にではなく、牧師に信頼して、牧師にべったりになり、ついには牧師の誤謬によって運命をともにする信者が多い。
人は関係ない。人はろくでもないから。
人なんてたいしたことはない。私の経験では、信頼と尊敬に値する牧師など一人もいなかった。しょせん人間である。
自分のことを見れば分かるが、人間はみな弱い。自分に信頼できないなら、牧師やリーダーに信頼できるなどという考えは捨てよう。
私のことを誤解した人々が、「あなたはラッシュドゥーニーの弟子だから」と言ったので、私は彼の弟子になったことは一度もない、と言った。
事実、私は彼の人間性に関してはまったく無関心である。
私は、冷たいと言われるかもしれないが、自分の師と呼べる人についてであっても、べったりと付いて離れないなんてことはできない。
だから、かなり初期の段階で、ラッシュドゥーニーの団体から離れた。
独立して、自由にものが言える環境をできるだけ整えようとした。
人間は、人間である。もし仮に人間が成長するということがあるとしても、それは神の計画表に基づいて徐々に進むことであって、突然変わるなんてことはありえない。
生まれたばかりの子供に突然立って歩くことを求められないのと同じである。
だから、どの人間に対しても、自分の基準をつきつけて、「このレベルにならない限り許さない」なんてことを言ってはならないのだ。
人間という作品にノミをふるえるのは神以外にはない。
人間がやると、余計な血が流れる。
親が自立していないと、子も自立できない。
自立していない人間は、他人を自分の手と同じように、意志一つで動かせると考えている。
子供を自分の所有物と考えているから、子供は歪む。
神に委ねてしまうことである。親としての責任は、聖書に記されている人の道に歩み、脇にそれないように、「倫理的に整える」ということである。
自分の野望の実現のために他人を利用できないのと同じように、子供も利用できない。
日本人の人間関係は、この点で一皮剥ける必要があると思う。
すぐに、牧師は教祖になり、信徒は熱心な崇拝者になるから。
全部、依存心から来る。
人間にほれ込まないことだ。
人につくな、教えにつけ。
2006年5月26日
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