サベリウス主義は多様性を犠牲にするので神の栄光を表せない
>ついにカルバンまでも人の神化を主張していると
>言い出しています。彼らの引用はこちらです。
>
>カルバンは本当に神と人が混ざり合って人が神化
>するなどと言ったのでありましょうか。
カルヴァンは純粋に正統派神学を奉じておりましたから、そのようなことを言うはずがありません。
神と人が混ざり合うことはありません。
もし人が神になるのであれば、それは汎神論です。
聖書において、人間が世界の王となると述べられているのは「キリストにあって」なのです。
つまり、キリスト契約の中に入り、キリストと一体化されることによって、我々もキリストの権威を与えられ、地上を統治することができるのです。
しかし、この一体化というものは、けっして「存在論的」な一体化ではありません。つまり、我々も神になるということではありません。
夫が結婚して妻と一体になっても、やはり夫は独立の存在であり、個と個の区別が存在します。
キリスト教の基本は、「一と多」です。
もし、我々が存在論的にも神やキリストになってしまうならば、キリスト教は、汎神論のように、「一」の宗教になってしまいます。
汎神論は何もかもこの世界に存在するものは、神の一部だとするわけです。
しかし、キリスト教は、神と被造物を厳しく区別しています。イエスの復活後、使徒たちがイエスの権威を帯びて伝道し、病を癒し、奇跡を行った場合でも、彼らは礼拝されることを断固として拒絶しました。
彼らは、自分たちが神やキリストになったわけではないと知っていたからです。
我々は契約的に(または法的に)キリストにつながれるのであって、存在論的につながれるわけではありません。
聖餐のパンは、あくまでもこの契約を象徴するものであって、それがそのままキリストの肉なのではありません。それは、「契約的に」キリストの体なので、まちがって地に落ちてどこかの犬が食べたとしても、キリストの体が失われたことにはなりません。
夫婦の性交も、夫婦の契約的一体を象徴する行為であるだけで、実際に一体になりません。夫をつねっても、妻が痛がることはありません。
神経が及ぶ範囲は夫と妻個人に限定されます。病気をして夫がなくなったら同時に妻もなくなるわけではありません。
あくまでも神の御心は、「一と多」の社会を作ることにあります。
しかし、人間の作り出した思想は、一か多のどちらかに偏り、一致のために個性を犠牲にしたり、個性のために一致を犠牲にするようなものです。
神は、夫も妻もそれぞれ独自の個性を持ちながら、しかも、一致することを望んでおられます。
社会も同じように、個性を生かしながら、一致すべきです。神はいろいろな人種を創造され、それらの人種がそのままの姿で一致し、御国を建設することを望んでおられます。
存在論的にも一致してしまったら、神の栄光は現れません。
神は、多様なものを創造されました。何百万種もの動物や植物や無生物を創造されたのは、多様性を神が尊んでいることの証拠です。
しかし、神は、それらの動物や生物や無生物を、ごく少数の元素の組み合わせによって創造されました。
人間も犬もめだかも大腸菌も、同じDNAのシステムによって増殖するように定められています。人間と土の成分はかなり似ています。
一致も多様もどちらも大切であり、どちらも両立させないかぎり、我々は神がどのような御存在であるのかを表すことができません。
サベリウス主義者は、多様性を犠牲にするユニテリアンです。
古来、教会は、彼らを異端として退け、交わりを絶つことを人々に求めてきました。
2006年4月7日
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