科学は奇跡を否定することも肯定することもできない


超自然現象について聖書は数多く述べている。

復活、処女降誕など、奇跡と呼ばれるものだ。

現代の似非科学は、奇跡を否定する。

ご注意いただきたい。本当の科学は奇跡を否定しない。似非科学が否定するのである。

本当の科学は、「自然法則に基づかない現象は起きるかもしれないし、起きないかもしれない。それが起きるかどうか確実なことは言えない。」と言う。

なぜならば、本当の科学は、科学の活動は経験に基づくとするからである。

だから、人間があらゆるものを経験できない以上、自然法則に基づかないで起こることが絶対に存在しない、とは主張できないのである。

もし、100億光年かなたの星の地下300kmのところで現在起こっている事象を経験できる人がいるならば、そのようにいえるかもしれないが、人間が経験できる範囲はごくごく限られている。

実験できる範囲もごくごく限られている。

それゆえ、この世界のあらゆる可能性について明言できる人など一人もいない。科学の活動が帰納法に基づいており、経験できることから法則を抽出することによって成立する以上、科学は、人間の経験の範囲内のことについてしか明言できないのである。

「処女降誕など絶対にありえない!処女降誕を主張するキリスト教は非科学的、迷信的だ。」と言っているのは、科学者でも何でもない。単なる「教条主義者」「似非科学者」である。

なぜならば、彼は「私は経験のみに依拠する知識の方法としての科学によらずに、独断で物事を判断する!」と宣言しているからである。

彼は、宗教家である。彼がこのように叫ぶときに、彼は「私はこれこれの信仰を表明する!」と言っているに過ぎないのである。

経験科学によって「処女降誕は一回も歴史上起こらなかった!」と断定することは不可能なのである。

「<通常>、処女降誕はない。」とは言える。しかし、「<一度も>、処女降誕はなかった。」とは言えない。

もし言ったなら、「あなた歴史で起こった、または、起こるすべてのことをことごとく経験したのですか?」と問われる。

イギリス経験論は、大陸合理論が提唱した理性主義に対して、一定の制限を与えた。

大陸合理論は、人間理性によって人間は正しい知識を得られると主張した。

しかし、経験論は、「今、手にしているコップを放してそれが上に行くか、下に行くかは予測できない」という。

「え〜、下に行くに決まっているじゃないですか!」というかもしれない。

しかし、それは過去の経験的アナロジーによってそう判断しているに過ぎない。

過去、コップを放せば下に落ちた。だから、・・・という類推を行っているのであって、科学的断定をしているわけではない。

なぜならば、手を放した瞬間にコップに自然法則が働いて、そのコップを下に引っ張るかどうか「絶対の確実さを持って言え」ないからである。

次の瞬間に1000億回に1回だけ起こるきわめてまれなイレギュラーな現象「コップが上に上る」が起こるかもしれない。

科学が見つけた自然法則とは、「<通常>、これこれの場合、これこれの法則が働く」ということを述べているに過ぎない。

「<絶対>、この法則が働く」ということは科学は主張できない。

科学の認識方法が帰納法により、経験に基づき、演繹法や教条主義を排除するならば、「絶対」という言葉を使うことはできない。

人間の認識能力は、ごくごく限られている。

だから、処女降誕など絶対起こらない、と断言できる人は一人もいない。

処女降誕があったかなかったかは、科学的方法によって知ることのできない問題である。

奇跡について科学は何も言えない。

奇跡を主張する人を指差して「非科学的」と侮る人は、科学が何を知ることができるかを知らないのである。

 

 

2006年7月4日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp