聖書は自衛戦争を合法としていることについて2


もし聖書が侵略者に対する無抵抗を教えているとすれば、クリスチャンは、警察権力も否定せざるを得なくなる。

警察権力は、法律を破って市民を攻撃する悪を取り締まるために存在する。

無抵抗になれというならば、警察は不要だということになるのである。

また、家に鍵をかけて寝ることをやめるべきだということになる。

無抵抗は聖書的な方法ではない。自分の体、精神、家や国が侵害されたならば、それを追い出すために戦うべきだと教えている。

「右の頬を…」の個所は、よくキリスト教が非現実的教えであることを示すために利用されるが、そのように解釈する人々は、聖書について無知なのである。

マタイの山上の説教が書かれた当時の社会状況、歴史的文脈を考慮しないと正しく解釈することはできないのである。

イエスがおられた頃のユダヤは、ローマ帝国の属州になっていた。戦時中日本兵が中国においてそうしたように、ローマ兵は、属州において傲慢にふるまい、ユダヤ人の頬をぶったり、強制労働を課したりしていた。

これは誇り高きユダヤ人のプライドをひどく傷つけた。そして、ローマに対する独立運動が起こっていた。

しかし、律法に言われているように、ユダヤ人が神に忠実であれば、このような支配は受けなかったはずなのである。律法遵守の報いは、「他民族から支配されず、むしろ彼らを支配する」ということにあったので、ユダヤ人は、律法に基づいて自分の失敗を反省しなければならなかった。

だが、ユダヤ人はこのような反省をせず、「問題は律法を守るかどうか、ということにはなく、武力によって決起するかどうかということにある」と考えていた。

イエスが望まれたのは、「自分の現在の惨めな状態は、律法違反にあったと反省し、神に立ち返って誠実な生活を送れ。そして、ローマの侮辱を甘受するだけの謙遜を身に付けよ」ということである。

イエスが「右の頬…」を述べられた時に、次のエレミヤの預言を考慮されていたことは明らかである。

「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3・25-30)

これは、罪を犯したために国民的災難にあい、異邦人の屈辱的支配の下に置かれていたユダヤ人に向けた言葉である。

状況は同じである。

神は、「イスラエルの民族的栄光」そのものに関心があるのではなく、「<義を行う>イスラエルの民族的栄光」に関心があるので、単なる独立運動を嫌っておられるのである。

たとえユダヤが独立を獲得したとしても、悔い改めて義を行う状態になければ何の意味もない。

神が望んでおられるのは、イスラエルが聖くなることである。しかし、イスラエルはそれを拒否した。

イスラエルのこのような「罪を犯しつつ栄光を獲得したい」という不純な願望に対して、「栄光は二の次である。まず、へりくだって悔い改めなさい。」と勧めたのが、この「右の頬を…」の個所なのである。

聖書は繰り返し、「栄光は義の果実である」と教えている。まず第一に「栄光」を求めるのは間違いである、と。サタンはイエスに「私を拝むなら、全世界をあなたに与えましょう」と誘惑した。「義のない栄光」を求めさせたのである。

我々も同じような誘惑を日々受けている。

「そんなきれいごとを言っていても、人生で成功はできないよ。まず食っていけなきゃ何もならないでしょ。」とサタンはささやいてくる。

「世の中きれごとじゃすまない」というのは、サタンの誘惑の常套句である。

「神を待ち望む」ことができない人は、あせってサタンがくれた美味しい餌に飛びついてしまう。一時的に栄光も幸せも手に入れることができるが、サタンはけっしてただでは栄光を与えない。

サタンは、あなたの尊い命を奪うのである。

回り道のように見えるが、もっとも有効な方法は「謙遜になり、悔い改めて義を行うこと」である。悔い改めた者を主は放置されない。必ず侮辱を栄光に変えてくださる。

「主の救いを黙って待つのはよい。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。」

 

 

2004年5月3日

 

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