クリスチャンの手には破滅を回避するための鍵がある


朝のテレビである大学の神学部の先生が聖書を教えている。

彼は批評学に基づいて、イザヤは複数人いたと述べた。

なぜならば、まだ生まれてもいないペルシャの「クロス王」の名前を出せるわけがないから、と。

「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。
主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。』」(イザヤ44・28、45・1)

BC720年ころのイザヤが、100年も未来のクロス(600?-529BC)の名前を知っているわけがない、というわけだ。

それでイザヤは複数いると考えれば、つじつまが合うと。

こういった解釈が出てくるのは、「超自然を排除する」ヒューマニズムの合理主義思想にかぶれたからである。

「この世界に自然を超えた現象は起こらないか、起こっても無視すべきだ」という思想は、カントの認識論に由来している。

カントは、超自然について人間は確実には知り得ない、と考えた。

そこで、「超自然については言及を避けるべきだ」と退いたかといえば、そうではなかった。カントは、大きな飛躍をした。

それは、「それゆえ、超自然は、人間にとって重要ではない。人間が考えたことを優先しよう」と述べた。

ここに、宗教の世界において、大革命が起きた。

つまり、「超自然の領域については、人間の主観が再編できる」ことになった。

人間が自分で考えた道徳や世界観が、聖書の倫理や世界観よりも優先すべきだ、とした。

この時から、世界は「人間だけで成立する世界」と認識され、宗教は二流の地位に追いやられた。

この「人間だけで成立する世界」という世界観を前提として、聖書学者たちは神学の再編成を行った。

超自然を聖書から取り除き、奇跡を無理やり自然現象として解釈しなおす作業が進んだ。

これほどおろかなことはない。

我々が頼るものが、超自然でなければ、いったい我々はどこに救いを求めることができるのだろうか?!

人間が宗教を求めるのは、「自然から解放されたいから」なのだ!

医学ではお手上げの病気でも、祈りによって治癒することがあるから祈るのである。

人間は、自然という閉じられた世界の中に閉じ込められることを極端に嫌う動物である。

すべてが自然法則だけで成立しているなら、文字通り「夢も希望もない」。

超自然を聖書から排除するようなキリスト教は、「絶対に」長生きできない。

なぜならば、魅力がないから。

ヒューマニズムは、自然だけで成立する世界を作り出したが、同時に、「自然を超える自由の世界」も作り出そうとした。

彼らは、自然だけの世界は我々に夢も希望も与えないということを悟っていた。

そこで、神の超自然的な救いに頼るかといえば、そうではなかった。

彼らは、キリスト教を選択しなかった。

何を選択したかと言えば、「人間の自由意思」である。

彼らはあくまでも「人間だけで完結した世界」を作りたかった。神が入る隙間を与えたくなかった。

人間には、自然法則を超えた自由な決断力がある。と彼らは言う。

今の環境問題も、この流れである。

「自然界をこのままにしたら、地球温暖化、環境汚染、種の死滅…によって大変なことになるぞ!」と叫ぶ。

そして、神に悔い改めて「すみません。勝手なことをやり過ぎました。聖書に従って統治する道に戻ります」というかといえば、そうではない。

「我々の英知によって、自然を破滅から救い出そう!」というのだ。

ここにきても、まだ神に帰ろうとしない。

とにかく人間は神に頭を下げるのがいやなのだ。

サタンにだまされてから、ずっとこうだった。

生まれながらの人間の性質は、「神抜きでなんとかやろう」とすることである。

ソ連が崩壊しようが、北朝鮮がおかしくなろうが、あいも変わらず、「俺たちだけで…」という姿勢は変わらない。

現代の文明が、バベルの塔である以上、その終局は破滅でしかない。

しかし、我々クリスチャンは、その破滅回避の道を見ている。

歴史の反省を踏まえ、クリスチャンは自分の立場をヒューマニズムの立場から切り離すべきだ。

そして、聖書から解決の方法を編み出さなければならない。

我々のスタンスは、あくまでも「世の光」として輝くことである。

我々がヒューマニストといっしょになって悲観論に走れば光となることはできない。

 

 

2005年3月21日

 

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