キリスト教とバルト主義2


『教会教義学』第1巻を出版したころ、バルトは、モダニストのことを「意識神学者(consciousness-theologian)」と呼んでいた。意識神学者とは、神を自分のイメージにあわせて作り変える人々であった。バルトによれば、これらの意識神学者たちは、洞窟に向かって叫び、その反響を聞くと、「ああ、これこそ外部からやってくる神の声だ」と言う人々のようだ。

これらの学者たちに逆らって、バルトは、再び「完全に他者である神」を伝えた。「知識に至る道(つまり、神の認識可能性)は非常に暗く、それを知る者はほとんどいないので、神について語る者は、世から見れば、(たとえ美しくとも)単なる幻想か夢でしかないものを主張しているのである。・・・」(Die Christliche Dogmatik im Entwurf, 1, 1927, pp. 55-56.)

聖書に関して、バルトは、モダニストに対抗して、こう語った。我々は、聖書の様々な個所を恣意的に区別してはならない。つまり、「これは神の言葉だが、あれは人間の言葉だ」と言ってはならない。「我々は神の言葉を聖書の背後にではなく、聖書のうちに探さなければならない。」(Ibid., p.344.)

また、彼は、人間が救われるのはただ恵みによる、と述べた。「聖霊の御業としての信仰と服従は、我々のうちに、我々が体験できない理解を生み出す・・・」(Ibid., p. 293.)

神に関する思索を下から出発させる意識神学者たちに対して、バルトは、「我々は神から思索を開始しなければならない」と述べる。三位一体に関して語ろうとするならば、啓示に基づいて語らなければならない。啓示が持っている論理の方法にしたがって語らなければならない。

啓示は徹底的に隠す。神が主権者として実際に我々の前に立つならば、それは神が完全にご自分を隠しておられるからである。

神はキリストにおいて自己啓示されたときですら知られぬ神である。このまったく不可知な神を知ることができないにもかかわらず、クリスチャンは結局神を知っている。なぜならば人間は、少なくとも部分的に、神になるからである。神は、神によって以外知られることがないからである。

バルトは、「本当に聖書のメッセージを語るつもりなら、あらゆる形の現代哲学から永遠に自分を切り離さなければならない」と考えていた。彼はそれを『教会教義学』においてすでに語り始めていた。彼の仲間は、バルトが啓示の御言葉に還りつつあることを知っていたし、それに賛同していたが、まだ大部分哲学に支配されていた。

当時、これらの仲間とバルト自身もひきつけられていたと認めた哲学とは、実存主義であった。実存哲学は、それ以前の哲学よりも、超越者を求める人間の心を理解しているように見えた。神を求める旅を続けるために、この現代哲学と手をたずさえて行くというのはすばらしい考えではないだろうか、と友人たちは考えた。バルトにとっては、これも夢に過ぎない、実存哲学ですら人間から出発している。啓示の出る幕はまるでなかった。哲学よ、立ち去れ!

バルトは一人で歩み出さねばならなかった。友人は離れていった。エミール・ブルンナーは途中までついてきた。彼は、バルト以上にモダニズムの祖シュライエルマッハーを辛らつに攻撃したが、結局もとに戻った。バルトの個人的な友人であるThurneysenだけが残った。

1932年に、バルトは『教会教義学』を出版しはじめた。教会の信仰しか語らなかった。現代人の文化的関心を知りつつも、けっしてそれにあわせてこの信仰の内容を変えようとしなかった。彼の唯一の関心は、第1戒「私の前に他の神々を置いてはならない」にいかに忠実になれるかにあった。

『教会教義学』の第一原理とは、キリスト学であった。キリストにおいて自己啓示された神以外のいかなるものも神として持つべきではない。それゆえ、バルトの神学は、「ことばの神学」であった。

この立場から、彼はモダニズムを攻撃した。モダニズムの原理とは、自存・自己完結の人間のそれである。自存、自律の原理は、見つけ次第切り捨てるべきである。宗教改革への真の追従者として、我々は、神の存在を証明しようとするあらゆる試み(つまり、自然神学)を反キリストの創作として拒絶すべきである。ブルンナーのうちにも自然神学という病のしるしを見ることができる。しかし、我々は前進しなければならない! 現在必要とされているのは、宗教改革神学の包括的な主張を恐れなく唱えることである。我々は、パウロに、そして、さらにキリストにまで帰らなければならない。キリストを、我々にとっての唯一の仲介者として受け入れなければならない。

『教会教義学』において、再び、神は「絶対他者」であると言われている。神は自由の中に存在し、活動される。神は、ご自身の正反対の存在に完全、または、部分的に変わることがおできになる。(Kirchliche Dogmatik 2/1, p. 352.) 受肉と、神との和解は、神の概念の中に含まれている。神は、まったき忘却と暗闇の中で死ぬことがおできになる。「というのも、イエス・キリストとして受肉された神の御子は、神的存在の永遠の形態として、世界内在の原理にほかならず、それゆえ、神の第2の絶対性と我々が呼んでいるところのものの原理にほかならないから。」(Ibid., p. 356.)真の主体として、神は、受肉において客体となられる。

キリストにおける神の自由というテーマになじむにつれて、バルトは、ますます、現代人に福音を説く方法をついに見つけたと確信するようになった。福音とは、キリストを通じて人類に神の恵みを伝えるメッセージである。神の本質が恵みであるということが分かるまで、我々は本当に恵みの性質を理解したことにならない。

教会は、すべての悪人に神の裁きが下ることを宣言しなければならない。神は、聖く、正しいお方なので、罪を見過ごされない。しかし、神は、それ以上に、恵み深いかたであられる。キリストにおいて、神は人類の罪を御子の上に、そして、ご自身の上に下された。

それゆえ、恵みとは本来、至高の恵みである。何人もそれを当然のこととして受けるに値しない。また、恵みとは本来普遍的である。何人もそれなしに人間でいつづけることはできない。(Ibid., p. 401.) 神は、ご自身の内にも外にも命を持っておられる。キリストにおいて、神は人間と存在を共有され、人間を神に変化させたもう。(Ibid., p. 747.)

Comeはバルトのメッセージを次のようにまとめた。


バルトは、繰り返し繰り返し次のことをいろいろな形で述べたのである。すなわち、つまるところ、我々がつねに言わなければならないのは、「神は愛であり、神は福音である。」ということである。神の裁き、神の怒り、神の拒絶は、すべて神の愛の本質と目的のうちに含まれており、それらに仕えるものである。しかし、それと同じくらい強く彼が願ったのは、「神の絶対自由と絶対主権は、まさに神の愛のうちにある」と主張することである。神の愛を前にして、いかなる権利・主張・力・可能性も無力である。神の愛という輪の外側には何も存在せず、いかなる可能性もない。(Op. cit., p. 79)

すべてはキリストを中心に回っている。バルトが福音的な牧師に対して望んだことは、キリストを人々のために伝えることだった。

(B)福音

バルトは、キリストのユニークさと、キリストの恵みの一回性を主張した。Georges Casalisは次のように述べた。

第一に、バルトは、福音の神学者である。彼は、恵みの福音をキリスト教の主張の中心に置いた。(Portlait of Karl Barth, New York, 1963, p. 18.)

モダニストの主張が「聖書には神の言葉が含まれている」であり、ファンダメンタリストのそれが「聖書は神の言葉である」であるとすれば、バルトのモットーはファンダメンタリストのそれと同じである。バルトは、聖書の言語霊感すら信じていた。(K.D., 1938, p. 592.)エミール・ブルンナーは処女降誕を否定したが、バルトは、福音主義者とともに、それを認め、その重要性を主張した。ルドルフ・ブルトマンは聖書を非神話化しようとしたが、バルトは「神と人間の関係は歴史的にユニークである」と述べた。ブルトマンは「キリスト教信仰は主観的である」と述べたが、バルトはキリストとその御業の「客観的な」性質を弁証した。とくに、肉体的復活を弁護し、それを使徒の信仰と教えの基礎として位置付けた。神が目に見ることができ、触ることができる人としてやって来られたという概念のうちに、至高の恵みは表現されている、と述べた。

初期の著作『ローマ人への手紙』の中で、バルトは復活の歴史性を否定したが、『教会教義学』の第4巻において、キリストは死後、弟子たちの前に「見たり触ったり聞いたりできる」ものとなって現れたと述べた。(K. D., 4/1, p. 339.)

バルトの神学は、イエス・キリストと、イエス・キリストを証言する聖書を中心として成立している。バルトにとって、イエス・キリストは神であり、聖書はキリストを証するので神の言葉である。しかし、イエス・キリストは神であると言う場合に、我々は神を活動的なお方であると見なさなければならない。神とは、キリストにある神である。キリストは、その御業におけるキリストである。その御業とは、人間のための恵みの御業である。

「イエス・キリストは、和解である。」(Ibid., p. 35.) イエス・キリストは、神と人間の仲介の事実である。イエス・キリストが和解であるというのは、彼が真の神であると同時に真の人間でもあるからである。「彼の人間としての存在こそが、彼の御業である。」(Ibid., 3/2, p. 69.)

イエス・キリストとは、人類を救う御業である。人間イエスは、「神の御国の到来である」(Ibid., p. 80.)。イエス・キリストは、「万人の救いの歴史にほかならない。彼ご自身がこの歴史である。」(Ibid., p. 81.)

バルトが「イエスは神である」と述べ、「聖書は神の言葉である」と述べたときに、彼は完全なもの、完成されたもの、過去から我々のもとに訪れるものを指していない。

バルトによれば、福音とは、静止しているもの、与えられたものではけっしてない。イエス・キリストとは、絶対他者の神なのである。そして、この絶対他者の神は自由である。自分自身の啓示がナザレのイエスと同一であるならば、この神はこの啓示に縛り付けられるだろう。本来、通常の時間と空間の領域において起こる事実を、啓示的と言うべきではない。

一見福音的とも思えるバルト思想は、実際のところ、歴史的なキリスト教とはまったく異なるものであることがここでお分かりだろうか。

注意すべきは、彼が「絶対自由を持つ絶対他者なる神」を終始主張しているということである。時空に縛られることのない普遍的な存在と神を定義することによって、実際の歴史において起きたイエス・キリストの贖いの業は、寓話と化す。寓話ではないという彼の言葉にだまされてはならない。実質的に彼はキリストの御業の史実性を否定しているのである。

哲学や思想を優先することを戒めた彼が、自分の思想によって啓示をゆがめ、キリスト教を神秘化してしまった。人間は、よほど自分に対して絶望し、砕かれない限り、自分の考え思想によって、聖書そのものすらも歪めて解釈し、それを伝えてしまうのである。

 

 

2006年3月18日

 

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