ディスペンセーショナリズムは異端である。
なぜならば、旧約聖書の律法を拒否するから。
イエスは「私は律法を廃棄するために来たのではない」と宣言された。
また、パウロは、「信仰は律法を確立する」と言った。
ヤコブは「律法を守る者は立派である」、「律法を裁く者は、律法を守る者ではない」と言った。
もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。(2・8)
兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。(4・11)
新約聖書全体を通じて、律法には依然として権威があると主張されている。
だから、律法を拒否するディスペンセーショナリズムは、間違った教えである。
では、律法はそのまま守るべきものなのだろうか。
今もユダヤの祭りを行うべきなのか。
そうではない。
律法は、新約時代になって「諸国民の弟子化のガイドライン」になったのだ。
だから、古代ユダヤ民族にのみ適用可能なものは、すべて新約時代の超民族的経綸に合うように変化したとしなければならない。
パウロは、祭司職が変わると律法も変わると述べている。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません・・・(ヘブル7・12)
新約時代に、祭司職は、レビ系の祭司から、キリスト系の祭司に変わった。
旧約時代において、祭司はレビ一族から出たが、新約時代において、ユダ族であるキリストが祭司になっただけではなく、クリスチャン全員が祭司であると宣言された。
だから、「ユダヤ人のレビ族から祭司を探さねばならない」などと今も言っているメシアニック・ジューは完全な間違いを犯している。
メシアニック・ジューは、ユダヤ性の回復を主張するあまりに、旧約聖書の経綸を復活させるという大きな間違いを犯している。
旧約の天地は紀元70年に崩壊したのだ。
そして、新しい天地となった。
新天新地になり、祭司制度が変化した以上、律法も変化した。
いまや、すべてのクリスチャンが祭司である。
我々は、昔の祭司のように、人々のためにとりなしをしなければならない。
神と人とを和解させる使節となった。
すべてのクリスチャンが伝道師である。
旧約律法の全廃を唱えるディスペンセーショナリズムは、旧約聖書を拒否したマルキオン主義と同じ異端である。
イルミナティのダービー及びスコフィールドを通じてディスペンセーショナリズムを受け入れた世界の教会は異端化した。
だから、そのような教会から出ても罪ではない。