半分進化論を受け入れているような人々、とくに、教職者で進化論を受け入れ、創世記の創造が文字通り6日で完了したことを受け入れられない人々は、プロとして致命的なミスを犯している。
そのミスとは、「御言葉をいじることはタブーだ」ということだ。
御言葉は神聖にして冒すべからざるものである。
それに一つでも改ざんをすると恐ろしい呪いによって永遠の地獄に投げ落とされるようなものである。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22・18-19)
この原則は黙示録に留まらない。聖書全体について言える。
御言葉は神聖であり人間の手が及ぶものではないということをどれだけ真剣に理解できるか。もし理解できていれば、軽々しく創造の1日は10億年を表すなんて言えないはずである。
「いやぁ、それは厳しすぎませんか。じゃあ、科学的な事実とどう調和させるのですか。」と聞くだろう。
私は、そういう人にはっきりと言う。
「無視しなさい。」と。
科学的事実と言われるものを無視せよ、と。
科学的事実が本当に科学的事実かどうか調べるまでもない。
神の言葉というものは、そういう性質のものなのだ。
つまり、絶対なのだ。
我々には選択の余地はない。御言葉が示されたらただひたすら受け入れる以外にはない。
それについて疑う余地はまるでない。
創造の1日を10億年などと解釈する人々は、疑いの心を自分の内側で許した人である。
神の言葉の神聖さを冒してもよい、と考えた人々である。
つまり、神の言葉を馬鹿にしたのである。
「そんな聖書っていっても、実証的科学には勝てるはずがないじゃないか。」と。
実質的にこのような心が生じた段階で、教職者の場合はアウト。クビ。
プロとしてそれ以上の活動をしてはならない。
御言葉を馬鹿にした段階で、資格を失った。
御言葉を前にして、ただひたすらひれ伏すことができない人間が聖職など務めてはならない。
なぜならば、神と自分の間に主従関係がひっくり返っているから。
主の僕になろうとしない傲慢な人間が人を指導などできるはずがない。
いくらか厳しいことを言ったが、これは私の説ではなく、聖書の主張である。
ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。(申命記18・20)
聖書をありのまま、聖書の主張どおりに伝えない預言者、私的解釈を施すことをなんとも思っていない預言者、聖書に対して恐れを抱かない預言者、こういった預言者は「死ななければならない」。
御言葉の改ざんは、それぐらい恐ろしい罪だと聖書は言う。