キリストは我々の罪の代償を完全に支払われた
永遠の刑罰の話をすると、きまって「私はそんな悪いことをした覚えはない」という人がいる。
残念ながら、良いか悪いか判断するのは神である。
オーディションの会場において評価を下すのは主催者であって、候補生ではない。
候補生がどんなに「私は歌手に向いています!」と言っても、向こうが駄目だと判断すれば、落ちる以外にはない。
では、神の判断は何に基づいているのか。
聖書である。聖書の律法に照らして基準に一つでも達しなければ、すべてを犯したと見なされる。
神の基準は「オール・オア・ナッシング」である。一回でも罪を犯した人間は、「罪人」であり、絶対者である神の目から見て、「裁かれるべき者」である。
一つの罪でも、「いいよ。いいよ。」と見逃すことができない。
絶対に聖である方が受入れられるのは、絶対に聖であるものだけである。
人間は、「人間の善行で救われるのでは」と考え、様々な宗教を作った。しかし、神の目から見れば、人間の善行はさらなる悪行の追加としか見えない。
それは、真っ白な部屋の中で、泥靴で拭き掃除をしているようなものである。ぞうきんで拭いた後に泥靴の足跡をつけている。
人間は、善行をすると、必ず傲慢になる。慢心する。自分の功績を見て、自己満足する。善行がかえって自分を堕落させているのだ。
人間の善行では救いはない。
神は新たに救いの道を開始された。それが、イエス・キリストによる犠牲の道である。
イエス・キリストは、旧約聖書における動物犠牲の本体である。旧約では、人間が犯した罪の身代わりに動物が犠牲となったが、新約では、イエス・キリストが人間の罪を背負って神の刑罰をお受けになった。
このことを信じて、神の前に悔い改める時に、人間は救われ、刑罰はすべて完済される。
イエスの十字架上の最後の言葉の一つは、τετελεσται(完了した)である。
このギリシャ語はτελεωの完了時制である。τελεωは、古代ギリシアにおいて「支払い義務のあるもの(とくに税金)を払うこと」を意味していた(Kittel, Theo. Dic. of NT, vol. viii, p.57.)。
ギリシャ語の完了時制は、「過去起こったことの現在の状態を強調する」から、「現在すでに支払いが済んでいる」というニュアンスが強調されている。
キリストは、十字架の上で我々が支払わなければならない罪の代償を完済してくださったのだ。そして、不安に思っている我々に対して「もうすでに支払いは済んでいる」と語りかけている。
我々がなすべきことは、この事実を受入れ、教会で洗礼を受けて、キリスト契約の中に入ることである。
2006年5月23日
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