死後のセカンド・チャンス
最近、あるクリスチャンの集会で、「死後のセカンド・チャンスの可能性」について出席者から尋ねられたので、「それはわかりません」と答えた。
セカンド・チャンスについては、聖書に十分に結論を出せるほどに啓示されていないので、こう答えるしかない。
「あります」と答えると、様々な矛盾点が生じる。「わざわざ宣教のためにアフリカの奥地に行く必要があるのか。原住民が死後に救われるように祈ればよいのではないか」という問題など。
しかし、「絶対にない」と答えると、「バプテスマのヨハネは、母の胎内にいたときから聖霊に満たされていた」ということをどう解釈するか。
普通の信仰の方法ではない救われ方があると暗示されているではないか。
「死者のためのバプテスマ」をどう考えるか。
「私の死んだ家族は救われないのでしょうか。」との問いに対する明確な答えを私は見つけることができない。
ただ、聖書において、家族は自分と一心同体、つまり、同じ共同体=一人の人間として見られている、とは言える。
ラハブが救われた際に、その家の中にいた人間すべてが救われた。
ラハブの信仰によって、家族も救われた!
だから、自分が家長であるかないかにかかわらず、自分がクリスチャンであることによって、救いが家族に及ぶことがあると思う。
自らの意思において、その家から出る人間にまで救いが与えられるとは思わないが。
つまり、自分の信仰に反対する家族については、救いが及ぶとは言いがたい。
「信仰告白を伴わない救いはあるのか」との質問については、不明としか言えない。
「ラハブの家族が救われたのは、あらかじめラハブが伝道し、信仰を持たせたからだ」との推測も可能である。
しかし、乳幼児の場合はどうだろうか。言葉をまったく理解できないのである。
私は、クリスチャンホームの乳幼児は救われると考える。
旧約の民に対して、8日目に割礼が施されたことから、「救いは理性に基づくのではなく、約束と恵みに基づく」ということを聖書が主張しているのは明らかだ。
「聖書は、救いについて、徹底して一つの方法―理性的理解に基づく信仰―だけを示している」と考えることはできない。
2007年6月13日
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