信仰義認が間違って説かれている2
「人は行いによって救われるのではない。信仰によって救われる」というのが信仰義認の教え。
これはキリスト教の中心的教理である。
人間は、いくら善行を積んだからといって救われるわけではない。なぜならば、神の基準は圧倒的に高いからだ。
100億円献金しようと、自分の命を犠牲にしようと、それで永遠の命が得られるわけではない。
イエス・キリストの犠牲を信じることによってのみ救われる。
しかし、これは、契約の文脈で見なければならない。
我々がクリスチャンになるということは、神と契約を結んで神の民となることを意味する。
神の民でなければ、サタンの民であり、神の民にならなければサタンと一緒に永遠の地獄に投げ込まれる。
だから、地獄に行かないためには、神の民となる必要がある。
神の民となるには契約を結ぶ必要がある。
その契約とは、宗主契約である。
つまり、神を主とする主従契約である。
だから、クリスチャンは、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分と同じように愛する必要がある。
この契約に違反することもある。
その場合には、その違反を赦してもらうために、キリストを犠牲として捧げなければならない。
イエス・キリストを信じるとは、契約を回復するために行う犠牲の献上なのだ。
どの契約でも違反があり、その違反に対して一定の解決がなければ、解消される。
同じように、神との契約においても、意図的な違反、その違反の是正拒否があれば、契約は解消される。
だから、意図的に罪を犯し、悔い改めないクリスチャンは、契約解除になり、永遠の命を失う。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・9−10)
2010年4月25日
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