クリスチャンは不安を捨てるべきだ
精神的な病といわれるものの原因は、不安か悪霊によると思われる。もちろん物理化学的な原因もあるかもしれない。薬物中毒患者の幻想のように。
現代人を精神の病に落ちいりやすくしているのは、このほかに、「不安」を賛美する傾向である。
ある実存主義者は、「不安」こそ人間が生きている証であるという。安心しているのは本当に人生を生きていないからだ、と。
古来、人間は「不安」を賛美してきた。
ギリシャ悲劇は、際限なき不条理に襲われる人間を扱っている。
しかし、聖書は、不安は神の民の属性としてふさわしくない、という。
カナンの地に偵察にいった人々が不安の言葉を口にし、それを聞いた人々が動揺した時に、神は怒り、不信仰な民をカナンに入れないと誓われた。そのため、40年の間イスラエルの民は荒野をさまよい、不信仰になった世代はそこで滅び、その子供たちがカナンに入った。
ヨシュアとカレブだけは疑わなかったので、カナンに入ることができた。
成長したクリスチャンの特徴は「安定」である。心が安定していなければどこかおかしいのだ。
私は60年代から70年代の造反時代に青春を過ごしたから、反カルチャーに大きく影響された。ロックをこよなく愛し、自分でもバンドを作って活動した。巷でけっこう人気があるピチカートファイブというバンドのKとは高校時代少しの間だったがバンド仲間だった。バウワウというヘビメタのバンドのボーカルとも大学時代バンドをやったことがあった。
だから、この時代から受けた影響は、一般の人以上である。半端なものではなかった。この時代が持っていた毒気を大量に吸い込んだ。
クリスチャンになってまともな歩みを始めようとしたときに、このさまざまな古い習慣は私の足を引っ張った。
私は、当時の実存主義の風潮から「不安」を賛美していた。まっとうな道から外れて、不条理と不安におびえることこそ、生きている証だなどと考えていた。
クリスチャンになってもそう考えてすごしているうちに、本当に自分の土台を崩される事件が起こった。合わない仕事をさせられたのだ。自分に合わない仕事がこんなにつらいとは思わなかった。何をやっても裏目に出る。それまで自分が頼りにしていた能力はことごとく否定された。
そのときに、はじめて本当の不安というものを体験した。
不安は、心に大きな隙を作る。悪霊が入ってきて、自分の心の中を燃やしていく。不安で体が痙攣したこともあった。
この体験から私は「実は自分には信仰がなかった」ということに気づいた。自分が持っていたのは、自分の能力や人間の力だった。
社会的にも自分の能力にも見放された時に本当の信仰を試された。
今でも試練は自分の能力を少し超えるレベルのものが襲ってくる。だから、完全に不安から解放されたなどと言えない。しかし、これらの体験から、不安に対処する方法はある程度身に着けることができたような気がする。
律法論議で思ったことだが、神がわれわれに求めておられるのは、堅固な城壁に囲まれ、堅固な岩盤の上に立ち、揺れ動くことのない確信に満ちて歩むことだと思った。
なぜならば、われわれが信じている神は不動のお方だからだ。
神が不動であり、そして、われわれは神につながっているのだから、不安になる理由は何もない。
律法の全部や一部が廃棄されたなどという律法に関するあいまいな理解ではこのような確信は得られない。
神の基準は不動であり、われわれはその基準によって守られている。この頑丈で不動の岩でできた壁と天井と床に囲まれている感覚こそ、われわれが持つべきものではないか、と考えた。
自分が幼少時代や青春時代に身に着けたものを払拭することは難しい。しかし、神はそれを望んでおられる。われわれは実存主義など世俗思想がこの世に持ち込んだ「不安の思想」を徹底して排除すべきだ。
2004年6月24日
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