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聖書が信仰と生活に関して誤りなき書物であることは聖書自身の証言から明らかですが(2テモテ3:15-17)、聖書が科学や歴史などの学問に関して誤りなき霊感を受けた書物であるという聖書的な根拠はどこにあるのでしょうか。
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テモテの該当箇所は、
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
A氏は、ここで「聖書は信仰と生活に関して誤りなき書物」であるが「科学や歴史などの学問に関して誤り」があると明言しておられる。
さて、「科学や歴史などの学問」は、「信仰と生活」に含まれないのでしょうか?
テモテのどこに「科学や歴史などの学問」について聖書は「有益」ではない、それは霊感を受けていないとあるか。
むしろ、聖書は「すべて」、神の霊感によるもの、とあるではないか。
「教えと戒めと矯正と義の訓練」に「学問」は含まれないのか?どこにその証拠聖句はあるのか。
歴史や科学などの学問と、生活を切り離すことがどうしてできるのか。
歴史や科学などの学問と、教えと戒めと矯正と義の訓練を切り離すことがどうしてできるのか。
その線引きの基準はどこに記されているのか。
「ここからは聖書が霊感を受けた権威として扱える領域、ここからは扱えない領域」という線引きの基準はどこに記されているのか。
私の回答:
聖書は、学問を含め、万物のあらゆる領域における最高権威である。
だから、学問は聖書の上に築かれるべきである。
つまり、帰納法的な認識論に基づく経験科学の学説が、聖書の教えとぶつかる場合に、聖書の教えを優先的に選び取るべきである。
例えば、科学がどんなに進化によって生物が誕生した、創造によるのではない、という学説を述べたとしても、我々は、聖書の教えを優先し、それを退け、創造論を受け入れる責任がある。
「学問の領域において聖書は権威ではない」という考え方は、聖書を実質的に神の言葉として退けている。
これは、究極的な誤謬であり、見過ごすことができない。
教職者の場合、教師としての資格剥奪に相当する誤謬である。