プレテリズムの聖書解釈12
<O様>
さて、本日の質問ですが、今日は11月の第一聖日で、いつもの如く聖餐式がありました。
配餐時の聖書朗読がヨハネ6:47〜58でした。
54節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」ここではっとしました。
前半はすべてのクリスチャンにあてはまると考えられますが、後半の「終わりの日」で、ここを紀元70年とすると、復活にあずかるのは、当時イエス様と行動を共にしていた、ごく僅かのメンバーのみということになりませんでしょうか?
黙示録20:5〜6「第一の復活にあずかる者」との関連へ如何でしょうか?
<tomi>
そのとおりと思います。
この「終わりの日」という言葉を一義的に「紀元70年の終末」と解釈するフルプレテリズムはここで大きな問題を抱えることになります。
パーシャルプレテリストの場合、律法の「二段階の聖め」(民数記19・19)から類推して、「終わり」は「イスラエルの終わり」と「世界の終わり」の二回あると考えますから、たとえここでイエスが「終わりの日にその人をよみがえらせます。」といっても、「これは、紀元70年の時の復活と、世界の終末の時の復活」と考えることができます。(*)(**)
しかし、フルプレテリストの場合、「終わりの日」は、紀元70年しかないわけですから、復活する人々も「紀元70年までに『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者』」しかいないということになります。
(*)
すでに前の回答で、第2ペテロにおける「終わりの日」を「紀元70年」としましたが、「なぜここだけは『紀元70年』であって、『世界の終末』ではないのか」という質問があるかもしれません。
第2ペテロは、宛先がはっきりしています。つまり、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」(1・1)であり、「このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしな」(3・17)ければならないとペテロ自身が命令したクリスチャンたちです。
彼らは、歴史全体に普遍的に存在する「普通名詞のクリスチャン」ではなく、ペテロの時代に生き、使徒たちから牧会を受けているごく限られた「特定のクリスチャン」です。
それゆえ、彼らにとっての「終わりの日」とは、「来るのを待ち望み、来るのを早めなければならない」日、「遅らせておられるのではない」日です。
つまり、紀元1世紀のクリスチャンにとって切迫している日であり、それゆえ、「紀元70年の終わりの日」以外ではありません。
しかし、ヨハネの福音書が読者を明示しておらず、それ以後の歴史の中に含まれる「普通名詞のクリスチャン」も含まれると考えることができるのですから、「終わりの日」とは、「紀元70年」を指すとも「世界の終末」を指すとも考えることができます。
(**)
イエス・キリストは、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼(ラザロ)がよみがえることを知っております。」(ヨハネ11・24)と述べたマルタに対して、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11・25-26) といわれた。
つまり、「復活の時期がこなければ復活は起こらないというのではなく、私そのものが復活なのだから、今ラザロを復活させようと私が望めば、そのとおりになるのだ」と言っておられます。
ということは、復活の時期とは、「紀元70年」と「世界の終末」だけではなく、イエス・キリストが希望すればいつでも、と考えることができます。
復活の奇蹟としてのこれらの2つの時期は一つの目安であって、それらに絶対的に限定されると考えることはできません。
2004年11月8日
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