無償の愛は聖書的ではない10


「じゃあ、教会における奉仕にはすべて報酬を払う義務があるのですか」と問う牧師がいるかもしれない。

それは、信徒のみなさんへの合意に基づく。

旧約において、民は、自分に与えられた祝福を神に返すために十分の一のほかに様々な奉納物を収めた。

教会の奉仕をこのような感謝の奉納物として行うことはできる。

しかし、それは、牧師が利用の対象にするということではない。

信徒が「それを神への奉納物として行います」と合意するならばよい。

しかし、「ただで使ってやる」という態度ならば、当然のことながら、負債が蓄積される。

教会において牧師が信徒を利用しているようならば、負債の蓄積が「神の法への違反に伴うのろい」となってずっしりと教会の上にのしかかる。

ついに破綻して、信徒が四散します。

何年やっても0から出発しなければならない日本の教会は、この「無償の愛」という「ぼったくりの原理」によって、のろわれている。


神はあなどられるかたではない。人は種を蒔けばその刈り取りもすることになる。

 

 

2010年5月22日

 

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