信仰の目を養い、世俗的基準を捨てるべし
人間は、どんなに説得し、どんなに理を尽くして説明しても、自分が信じたいものを信じる。
こちらが10年同じことを毎日繰り返し主張しても、誰かの考え方を変えることは不可能である。
じゃあ、真理を主張することにいかなる意味があるのか、と人々は問うだろう。
それは、「神がその真理を広める自分の働きを利用してくださるのを待つ」ということだ。
私たちが述べた言葉を神は拾ってくださり、それを誰かの心に植え付ける。
その人を影響力のある人に育ててくださり、国や組織のトップに据えてくださる、など。
自分の側では一切心配する問題ではない。どのような影響力を持つかは神が決定される問題であり、自分の発言力を高めるためにいろんな方策を考え出す必要はまるでない。
それは神の側の仕事であって我々の仕事ではない。
人間は、自分の性に合ったものを信じる。自分の生まれながらの性向にしたがった考え方だけを受け取る。
それほど人間の可塑性は低いのである。
とくに大人になり、人生でなにがしかの業績を残した人を変えることは不可能である。
私は、大人を変えるなどという幻想をすでに捨てた。
若い時期に誤謬に触れ、誤謬に育てられたら、悲劇である。
今の日本のキリスト教界において、聖書の真理を知る機会はほとんどない。
福音もどきで教会は埋め尽くされている。
クリスチャンのようなふりをした作家の本が、あたかもクリスチャンの本のようなふりをして書店に並べられている。
歴史的正統的なキリスト教は欧米のごくごくマイナーな書店でしか発売されておらず、日本にそれらが輸入翻訳されることはまずない。
バルトだの、キルケゴールだの、そういう亜流俗流の本があたかもキリスト教であるかのようにして輸入され、翻訳され、一流と言われるキリスト教系大学において、あたかもキリスト教であるかのようにして紹介されている。
科学の授業では、進化論、進化論的人類学、進化論的医学、物理学、天文学が幅を利かせ、創造論に基づく科学はほとんどまったく教えられていない。
これが現状である。
誤謬とうそが人々の心を捉え、人々を滅びの穴の中に引き込んでいる。
これに対抗しようとするマトモナ人々は無視され、ほとんど鼻も引っ掛けられない。
聖書的な世界観を実践しようとしても、資金も支持者も何もまったく与えられない。
世俗の力は圧倒的で、これらの試みなど一瞬のうちに滅ぼす勢いである。
だから、目に見える成果を期待するということがいかに愚かであるかお分かりだろうか。
目に見えるもの、人間の統計学などで測る成果、そういったものは御国において何の基準にもならない。
成果主義の教会成長主義は、世俗的信仰であり、そういった価値観を持っている人間を長老にしたり、牧師にしたりしてはならない。
長老や牧師には、信仰の目だけで評価できる人間を選出すべきである。
しかし、とかく教会においては、資産や社会的地位によって長老などが選出され、それゆえ、教会が世俗的になる。
信仰者は、世俗的な価値観を徹底して捨てることができなければならない。それだけの強い意志がなければ、表面的な影響力などに動かされて、自分を出版社に売り出し、教えを二の次にするような教職者になってしまうのである。
そして、自分に与えられた貴重な一生を無駄にするのである。
2006年7月3日
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